2000年1月30日

 大学に行くと言って、そのままアルバイトに向かう日々が卒業を脅かし始めている。テストだけならパスできるが、出席日数が足りず期末テストの教室にすら入れない単位がいくつもある。

 そんなある日、たまたま立ち寄った学生課で『単位認定付き短期留学プログラム』というパンフレットを拾った。本当は中国語の勉強に飽きてしまったからとも言えず、ましてや”結婚まで考えた中国人の恋人と破局したから”などと言えるはずもなく、「就職するとき中国語だけじゃ足りないから」ということにして親を巻き込んだ。


「おまえはただ逃げたいだけだろう!」


 親もバカではない。ところが「帰国後、英検準1級とTOEIC700点」とうっかりハードルを上げてしまった。結局、<但し条件を達成できなかった場合、留学費用について利子を付けて返済すること>という一筆まで書かされ、どうにか国外逃亡するための資金を得ることができた。

 単位認定付き語学留学パンフレットの巻末には、各国の提携校一覧がついていた。自分で20万程足して予算内に収まったのは2カ所。カナダのトロントとオーストラリア・パースだった。


<やめておけ!こっちの冬はカンフーの修行で温まるレベルじゃないぞ!>


 2月のトロントについて意味不明な解説を送ってきたのは、北京から一時帰国していたファッキン・カンフー・ブラザーズのアランだった。雪で停電が起き、深刻なインフラ障害が起こっているという。


<ファッキン・マイナス30℃を舐めるな!>


 義兄弟からのメールは過激な警告文で締めくくられていた。そういうわけで行先はインド洋に面した美しいビーチに決まった。



 西オーストラリア州パース。オーストラリア第4の都市にして、エコノミスト社の「世界で最も住みやすい街」に10年連続ランクインしている。空港に降り立った俺をトヨタのハイエースバンが待っていた。


「ジムと呼んでくれ!」


 汗まみれの太り過ぎたオッサンが運転席から分厚い手を差し出してきた。車内にはすでに数人の先客がいたが、皆オッサンの「暑い、暑い!」という文句を聞き流して窓の外を向いていた。

 たしかに1月のオーストラリアはカラリと暑い。ようやくピックアップリストの確認が終わるとオッサンはサイドブレーキを降ろしたが、走り出して10分もしないうちに路肩に寄せるといきなりTシャツを脱ぎ捨てた。「香港から来た」と言っていた女の子たちは警戒して身を寄せ合った。オッサンは上半身裸になると、びっしりと生えた胸毛の上にシートベルトを締め直し、再びアクセルを踏みこんだ。


「ヘィ!ノースブリッジの辺りには楽しい夜のお店がたくさんあるぞ。よかったらオジサンが案内してやるぜ!」


 オッサンは後部座席を振り返りながらサングラスを少し持ち上げた。


「…精神病シェンジンピン(中国語で「イカレポンチ」の意)」


 台湾から来たという女の子に振り返ると、俺は運転席を指さして腕に注射器をあてるジェスチャーをした。

 裸のオッサンのピックアップ車は、乗客をそれぞれの目的地に送り届けると、一番最後にフリーマントル郊外のウィスロップに到着した。庭付きの平屋建てが贅沢な間隔で並んでおり、どの家にも2,3台は停められそうな大きなガレージが併設されていた。

 「ナンシー邸」もその中のひとつで、庭に寝そべっているゴールデンレトリバーに警戒しながら呼び出しベルを押した。中から出てきたのは東南アジア系のご婦人だった。


「あなた中国人?」


 南方訛りの強い中国語に「いいえ、日本人です」と英語で返したが、このやり取りで俺が中国語ができると見抜いたナンシーは、「悪いけど今夜はデートで忙しいの」と早口で中国語を押し付け、顔のしわを両手で伸ばしながら自分の部屋に戻っていった。

 ホームステイ先の欄に書かれていた”MISS NANCY”という名前を勝手に白人マダムと予想していたので、その正体はオーストラリアに移住して30年とはいえ、中華系マレーシア人であることに軽く幻滅した。それはともかくよほど今宵のデートに勝負をかけているようで、林家パー子しか持っていないであろうショッキングピンクで上下でそろえると、頭から何度もバーバリーを振りかけていた。


「分からないことがあったら奥のジョニーに聞いてちょうだい」


 玄関ではっきりと日本人である旨を伝えたが、もう中国語以外使う気はないらしい。玄関に走りながらバイバイと雑に言うと、ナンシーはヒスイのネックレスをぶら下げて出かけて行ってしまった。


 誰だよジョニーって――。

 恐る恐る奥の部屋をノックしてみた。しばらく立ち尽くしていると、薄く開いたドアの隙間から声が聞こえた。


邊個人ビンゴヤン?(広東語で‘“キミは誰?”の意)」


 爆睡していたのか、ジョニーという名の香港人は踏みつけられたブタのような酷い顔でこちらをまぶしそうに見た。

 オーストラリアに着いてから、今のところ軽い自己紹介以外英語を使っていない。ようやくブリーフ一枚で部屋から出てきたジョニーからナンシー邸のシステムについて一通り聞いたが、これもすべて香港訛りの中国語である。


<――ナンシー邸での公用語は中国語で、>


 無事にオーストラリアに着いたことを親に知らせなければならないが、せっかく費用負担までして送り出した側の気持ちを考え、Back spaceを連打した。

 果たしてこんな調子で親との約束を果たせるのだろうか。先行き不明のパースの夜に、月が上がっていた。

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