(3)

「それは……申し訳ありません。それだけはどうかご勘弁ください……」


 どこか怯えた様子の女中・テルを見ていれば、不意に先ほど顔を合わせた第一夫人の結樋の姿が浮かぶ。そこで阿賀那は初めて「ああ彼女は怯えていたのだ」、と気づいた。青白い顔は怯えからくるものだったのだ。


 第二夫人の戯瑠子が既に亡い者である――。第一夫人付き侍女のイナの言葉は、また阿賀那に腑に落ちる感情を抱かせた。


 思えば、気位が高くあの情念と侮蔑に満ちた目を向けていた割に、戯瑠子の存在感は妙に薄かった。屋敷の影は嫌と言うほど濃いと言うのに、彼女の影は薄かった。初めに屋敷へと足を踏み入れた時に出会った戯瑠子は、鶯張りの廊下を音も立てずに消えて行った。


 けれどもまさか第二夫人の戯瑠子が亡き者であろうとは、予測もつかない驚きの事実である。


 そもそもが阿賀那は第三夫人なのだ。第二夫人が既に亡き者であれば、順当に行けば阿賀那が第二夫人として迎え入れられるのが常道であろう。だというのにこの屋敷は――統星彦は、阿賀那を第三夫人として妻に迎え入れた。はっきり言って、異常だ。


 しかも阿賀那はそのようなことを全く聞き及んではいなかった。女中のテルも口を割る気はさらさらないようだ。阿賀那がいくら頼み込んでも、テルは青白い顔をして首を横に振るばかりである。阿賀那はまったく、ハメられたわけである。


 そう思うと女中のテルには怒りは湧かないまでも、夫たる統星彦には「なんて奴だ」と思うわけだ。まったく食えない御仁である。第二夫人の戯瑠子が忘れ難いのかもしれないが、それは第一夫人の結樋にも、第三夫人となった阿賀那にも、ちょっと不誠実ではないかと思ってしまう。


 それを百歩、いや千歩譲って許すとしても、死者である第二夫人の戯瑠子が屋敷内を我が物顔で闊歩しているのはどういうわけであろうか。第一夫人の結樋が怯え切ってしまっているのもむべなるかな。死者なら死者らしく大人しくしておればよいのに、戯瑠子の幽霊はまったくもってふてぶてしい。死んでしまったのなら潔く成仏せよと阿賀那は思った。


 ――そんなことを思ったからであろうか。第二夫人の戯瑠子に頭の中を読める力が備わっているとは思えなかったが、もしかしたら阿賀那の雰囲気でなにかを察したのかもしれない。死してなお屋敷を跋扈しているのだから、戯瑠子にはそれくらい、実際にできたかもしれない。


 障子越しに外から甲高い泣き声がにわかに上がる。娘の麻耶葉のものだ。阿賀那はそれを聞きつけて居ても立っても居られず、縁側から庭に出る。女中のテルも慌てた様子でそれに続いた。


 広い中庭の、これまた立派な錦鯉が悠然と泳ぐ池のそばで、着物をびしょ濡れにした麻耶葉が泣いている。子守女は先ほどのテルと同じように顔を白くして、怯えた様子ながら麻耶葉をあやしていた。


「どうしたの」


 阿賀那が声をかけると子守女は謝りながら麻耶葉が池に落ちたのだと言った。阿賀那から叱責を受けるのが恐ろしくて、まだ少女である子守女は怯え切っているのかと思ったが、どうも違うらしい。


「この前の怖いおばちゃんがわたしを池に突き落としたの!」


 しゃくりあげながらも麻耶葉はそう言った。


 しかし子守女は困惑した様子で麻耶葉はひとりで池に落ちたのだと告げる。嘘を言っている様子はなかった。しかし麻耶葉が「だれかに押されたような恰好で」池に落ちたのも事実だと言う。


 子守女は第二夫人の戯瑠子の件を知っているのだろう。だから、先ほどからずっと顔色が悪いのだ。そこには阿賀那に叱られるという恐れから来るものも、いささかあるだろうが。


 阿賀那は麻耶葉を慰めたあと、子守女に着替えを手伝うように言ってふたりの背を見送った。それを見た女中のテルは第二夫人・戯瑠子について少しは話す気になったらしい。たどたどしく怯えた様子ながら言葉を続ける。


「戯瑠子様は妓館にいた頃に、何度も堕胎をされていたそうで……ですから子が宿る兆しはまったくなく……」


 テルは何度も周囲に視線をやって、今すぐにでも屋敷の角から戯瑠子が顔を覗かせんとしているかのように、ビクビクと可哀想なほど怯えていた。


「いえ、旦那様は気にしてらしてなかったんです。けれども戯瑠子様はそうではなかったようで……」

「……わかったわ」


 だから、統星彦の養女となった麻耶葉の存在が、戯瑠子は憎たらしくて仕方がないのかもしれない。


「結樋様が流産されたのは、みな戯瑠子様の呪いと噂しています……。いえ、アタシはそんなことはないと思っていますけれど……」


 女中のテルはそうは言ったものの、顔を見れば彼女が呪いを半分くらいは信じているだろうことは明白だった。けれども阿賀那はそれを失礼なことだと糾弾する気にはなれなかった。テルにとっては、死しても戯瑠子は恐ろしい存在なのだ。そして戯瑠子は死してなお、第一夫人の結樋を呪うような女だと生前から思われていたのだろう。そして現実に第二夫人の戯瑠子は屋敷を我が物顔で闊歩し、結樋や女中らに恐怖を振り撒いている――。


 ――なんて理不尽なんだろう。阿賀那は憤懣やる方ないとばかりに深くも短いため息をついた。統星彦はこんな性格の悪い女を未だに妻として扱っているなんて、第一夫人の結樋も、女中らも可哀想ではないか。


 義憤に駆られたこともあったし、娘の麻耶葉にちょっかいをかけられた怒りもあって、阿賀那は一計を案じることにした。


 まずは統星彦だ。第二夫人の戯瑠子がなぜ亡くなったのか、女中のテルは怯えて教えてくれなかったので、阿賀那は仕方なく統星彦に聞くことにした。ちょうど、この日はさっそく閨へと呼ばれていたので、そこで聞くことにする。


 閨では口が軽くなるのは、男も女も同じだ。すっかり素肌を見せて、肌を合わせては妙に親近感が湧くのである。だから阿賀那は今でも前夫のことが嫌いになれない。いい夫だったとは言えないが、悪い人間でもなかった。だから、今でもそう思ってしまうのかもしれない。


 しかしこの夫は趣味は悪かった。おぼこの阿賀那にあれやこれやと商売女のような技を仕込むことを好んだ。阿賀那はそれをイヤだと思うほどの知識がなかった。思い返せばこの件だけは業腹であるが、だが統星彦を籠絡する必要性に駆られた今は、少しだけ感謝したい。


「お上品な結樋様はこんなことはしてくださらないでしょう?」


 そうでなくても第一夫人の結樋はここ半年は体調が優れず、床に臥せってばかりいると言う。第二夫人の戯瑠子が元妓女であるということを鑑みれば、統星彦は恐らく外でそれらを発散しているだろうが、阿賀那は彼からすれば新しい女。新しい刺激である。それも手伝ってか、阿賀那が統星彦を巧みに責め立てれば、彼はたちまちのうちに気を放った。


 そして阿賀那の心中などまったく知らぬ顔をして、舌の滑り良く戯瑠子のことを教えてくれた。


 第二夫人の戯瑠子は、不幸にも屋敷へ押し入った賊に害された。ちょうど統星彦が屋敷を留守にしていた晩のことだと言う。女中や下働きの下男も、幾人かは無惨に殺された。


 しかし第一夫人の結樋は侍女のイナの機転もあって、すぐに地下蔵へ身を隠したので無事だった。そのとき彼女は子を宿しており、臨月も間近だった。


 だがその子は阿賀那も知っての通り、流れてしまう。第一夫人の結樋はそれを第二夫人の戯瑠子の呪いだと、情緒不安定になってしまい、流産の後遺症もあって床へ臥せっていることが多くなった。


 惨いことに統星彦は第一夫人の結樋を見舞いながらも、子を産むことなく亡くなった第二夫人の戯瑠子も哀れんだ。だから未だに戯瑠子は統星彦の第二夫人なのだ。そんなことを感傷に浸りながら告げる統星彦を前にして、阿賀那ははらわたが煮え繰り返る思いであった。


 統星彦は商売人としては大成しているし、大層な御仁であることには違いないが、夫としては落第も落第である。こんな陰鬱な死の空気が蔓延する屋敷で暮さねばならない第一夫人の結樋や、女中らは哀れであった。阿賀那もすっかり騙されて嫁いでしまった。子連れの寡婦とあればどうせ屋敷から逃げ出さないだろうと、統星彦も思っているに違いない。そう思うと阿賀那は甚だ業腹であった。


 おまけにその第二夫人の戯瑠子は、娘の麻耶葉が気に入らないと来た。これはもう、阿賀那からすればいくさである。なんとしてでもこの、ふてぶてしい女を排除せねば気が済まない。


 だから阿賀那は統星彦にある許可を取り付けた。


「お可哀想な戯瑠子様。戯瑠子様のお部屋はそのままなのですよね?」

「ああ、そうだ。しかし女中らはみな怖がって入ってはくれないのだよ」

「なんてお可哀想! もしよろしければわたしが戯瑠子様のお部屋へ入ってもよろしくて? 是非戯瑠子様のお部屋をお綺麗にしたいのだけれど」

「おお、そうか。それはいい。是非頼む」


「いや、流石に母は肝が座っておる」などと統星彦はご満悦だった。そんな統星彦を前に鉄の微笑みを浮かべながら、阿賀那が内心で舌を出したのは致し方ないことであろう。


 かくして統星彦から第二夫人・戯瑠子の居室を掃除する許可を得た阿賀那は、戦場へと赴くような心意気で女中のテルを伴い、この屋敷を陰鬱な空気で覆っている首魁の城へと攻め入るのであった。

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