第10話その2 東宮登場に、正頼、大姫・仁寿殿女御を頼る

 その後、改めて正頼は東宮に呼び出された。

 東宮はふっと笑うと、余裕たっぷりに話を切り出す。


「最近そなたと来たら、全然こちらには来ないから、寂しかったな。どうしてまた長くこっちを放っておいたのかな?」


 ちくちく、と嫌味がそこには感じられる。


「そうそう、十月の衣替えの時にもご病気だと言ってたので、実に気の毒だと思ってたよ」

「もったいなく存じます。いえ、持病の脚気が出まして、少々出歩くのも億劫になっておりましたゆえ」

「ほう。ではもう大丈夫という訳だな」

「苦しい痛みの方は」

「それは良かった。だから私の招待にも今度は来てくれたのだな。良かった良かった」

「はい。この通り参上致しました」

「全くだね。この宴でも、色々連句を文人達に作らせて、出来のいいものもたくさん出来て。もしそなたが居なかったら、この素晴らしいものも聞けなかったのだろうな。折角の秀句もそなたの目にとまらなくては、闇の世の錦とでも言うのかな」


 東宮はそう言っては、宴の際の秀句を持って来させ、こんなのがあった、そんなのがあったと披露する。


「確かに素晴らしい句です」


 正頼はとりあえずそう言うしかなかった。心の中は、いつあて宮のことを彼が切り出すかと気が気ではない。

 そしてついにその時が来た。


「ところであて宮に私がずっと文を送っていることは知っていると思うが」


 正頼はどう答えていいものかと迷う。その間にも、東宮は次々に言葉を投げかけて来る。


「そなたのところには、ずいぶんとたくさんの素晴らしい婿君が集まっているらしい。で、私をぜひその一人に加えて欲しいものだと思ってね。ずっとずっと懸想しているのだよ。この辛い気持ちを判って欲しいものだな」

「それは」

「ああ、かと言って、あて宮が可愛いからと上野宮に謀った様なことをされてもこちらはたまったものではないし。まあでも、そんなことされても、あの間抜けな宮と違って、そうそう上手く行くかと思ってね。ね、私はちゃんと本人が欲しいんだよ」

「お目にかけられる様な、そんな優れた娘が居る訳ではないから恐縮していただけにございます。口約束ばかりで、それを破ってばかりでは皆困ってしまうでしょう。上野宮に身代わりを差し上げたのは、宮に相応しい様な良い娘が居なかったからでございます」

「ふうん。でもまだまだ良い娘が居るという評判だし」


 涼め、と正頼は内心悪態をつく。

 彼があそこであの様なことを言わなければ、と正頼はひどく忌々しく思う。


「確かに多少残ってはおりますが、先の神泉苑の宴の折りに、近衛中将の涼と、おなじく中将仲忠が素晴らしい琴を弾いた時に、仲忠に我が家でお育てしている妹君の女一宮を、涼にあて宮を、と帝から……」

「左大将」


 東宮は鋭い声で口をはさむ。


「私はその様な宴の際の戯れ事のことを言っているのではない。現実の問題だ。私は今、そなたに言っているのだ。もうずっとずっとあて宮に文を出していることは左大将、そなたもよく知っていることだろう」

「しかしそれでは帝の仰せに背くことに」

「何の」


 あはは、と東宮は笑う。


「そのためにそなたが罪をかぶる様なことがある様なら、私が何とでも言おう。案ずるな」

「そう仰られるのは非常に有り難いことですが、娘はまだまだ幼く……… もう少し大人になった折りにでしたら」


「それで結構」


 ふふ、と東宮は笑う。


「あて宮にも絶えず文は送る。あんまり頻繁で、軽い男だと思われても何だから、ある程度は自粛するけどね。あて宮の母宮がさてどう思うことやら」


 左大将は東宮の言葉にひどく恐縮し「判りました」ととうとう了承してしまった。


   *



 左大将が東宮にあて宮を許した、という話は瞬く間に広がった。

 懸想人がたくさん居る中でも、特にあて宮を本気で思っていた実忠や仲頼などは大変である。

 実忠など本当に青くなり、赤くなり、床について延々苦しんでいる状態であった。

 それを見た父左大臣は「可哀想な息子よ」と思って見るが、兄弟達は「何をやっているのだか」と半ば呆れ気味であった。

 彼らは実忠の元の妻子を知っている。彼女達がどれだけ実忠と仲が良かったか、そして子供達を可愛がっていたのかも知っている。

 それなのに、あて宮あて宮と言い出してからは、このていたらくである。

 自分達はその様には絶対ならない様にしよう、と彼らは心に決めていた。

 と同時に、あて宮が入内するなら、東宮の元に既に侍っている妹がどの様な扱いになるのか、という心配が湧きつつあった。



 さすがにもう、こうなってしまうと現実的な問題として考えねばならない。

 正頼はとりあえずあて宮の母である妻、大宮に相談してみることにした。


「どうかね、今でも東宮さまはあて宮にお文をくれる様かな」

「ええ、おありの様です」


 どうかなさいましたか、と大宮は問いかける。正頼は大宮の側にどすん、と座る。

 そして困った様な顔になり、切り出した。


「東宮さまからせっつかれてな」

「まあ」

「私はあれこれと紛らわす様なことも言ったはみたのだが、どうしてもとの仰せでな…… 側には兵部卿宮や平中納言は意外そうな顔をしていたし」

「意外だ、ですか」


 大宮は眉を軽くつり上げる。


「実忠ときたら、もう魂が抜けた様になってしまっていてな」

「それはまあ、そうでしょうねえ……」

「それでまた、左大臣の兄上はそんな息子を見て涙ぐんでいるし。私はもうどうしていいやら」

「それはまあ……」


 大宮はいちいち納得せざるを得なかった。

 色好みで有名な、兵部卿宮や平中納言の反応は予想できるものだった。

 彼らはあくまで「自分を選ばなかったこと」「結局東宮に差し上げてしまうこと」が「意外」に過ぎなかったのだろう。

 彼らはその程度にしかあて宮本人のことは思っていない。

 長い間、娘達の懸想人を見てきた大宮にはお見通しだった。だから彼らには可愛い娘はやるつもりは決してなかった。

 一方、実忠だが。

 あて宮のことを思い詰めているのは判る。だがその思い詰め方が何となく困りものだ、という気持ちも母親として感じていた。

 とはいえ。


「あて宮のことでは、本当に色々と皆様も私達も悩まされますね」

「全くだ」

「東宮さまもどうしてそこまでおっしゃる様になったのでしょう。お側に居る者達が、あれこれ世間に広まっている噂をお耳に入れすぎて、その気になってしまわれたのでしょうか」

「東宮さまは、あて宮に皆懸想人がたくさん文を出していることをご存じ…… だろうな。その上でああいうことを仰ったに違いない」

「でも実忠どのの態度はいけませんよ。そんな、東宮さまの御前でぼぉっとしてしまうなんて。それじゃああまりにも露骨ではなかったのですか?」

「……む、それはな」

「東宮さまも、実忠どの程の者がそこまで我を忘れて恋い焦がれてしまうということに、余計に気を引かれたのかもしれませんね」


 正頼は黙る。大宮の機嫌がやや良くなくなってきたのだ。


「そういう時には殿方の方でも顔には出してはいけませんよ。東宮さまだってそんな態度の方だったら、つい虐めたくもなるでしょう」


 常に似合わずぴしゃりと言う妻に、正頼はまあまあ、と手を振る。


「そう言いなさるな。恋というものはついつい表に出てしまう、そういうものでしょう。私だって、あなたに通いだした頃はどんな心地がしたことか」


 まあ、と大宮は肩をすくめ、軽く顔を袖で隠す。正頼はふう、とため息をつきながら天井をあおぐ。


「それにしても実忠には困ったものだな……」

「全くですわ」

「彼は学問にも芸術にも素晴らしい人物であるのに、恋の道には只人同様だね。人の目も塞ぐことはできないし……」

「私としては、あて宮を本当に思って下さる良い方であれば、極端な話、どなたでも構わないのですよ」


 大宮は強く言う。


「でもお文を下さる皆様方のお仕えする東宮さまの思し召しですからね…… どうしたことでしょう。あてこそも結婚にはいい年頃にはなったのですが」

「もういい加減に決めてしまおうか。平中納言も右大将も良い結婚相手だとは思うのだが……」

「でしたら、入内させるかどうかについては、大姫に一度相談させたらどうでしょう」

「おお、そうだ」


 ぽん、と正頼は手を叩く。


「仁寿殿女御が我が家にはいらっしゃるではないか。そうそう、あれに相談してみなくてはな」

「もったいないことですが、直接東宮さまのお口から仰られたのですから、あてこそに対する思いに関しては私は充分だと思います。ご寵愛の方もたくさんいらっしゃるでしょうが、それはそれで東宮さまであるから仕方のないこと。女御が居ることですし、入内したとしても心強いでしょうし」


 大宮は自分で言いながらも、既に入内の方向に話が向きかけているのに気付いていた。結局はこうなるのだろうか、と心の何処かで思いながらも。


「そうだろうな。何も心配することはないだろう。宮仕えと言っても、こういう宮仕えはその人の前世からの宿世であろうからな。帝の母となるのはその中のたった一人だが」


 正頼の中でゆっくりと算段が始まる。

 無論それまでも考えていなかった訳ではない。ただそれまでは机上の空論に終わっていたものが、にわかに色付きだしたのだ。


「東宮さまはいつ次の帝になられてもおかしくはない方だ。この様に何度も何度も仰られていることを断り続けてどうなろう。我々も決心しようではないか」


 ええ、と大宮もうなづく。


「先のことは判りませんけど、あて宮が他の方に目立って劣るとは思えませんしね」


   *


 やがて仁寿殿女御が里帰りするという話になった。

 左大将宅からは、車を二十ばかり出し、そこに四位から六位の兄弟がそっくり迎えに行く。

 もっとも、帝は彼女の里帰りが寂しいので、なかなか退出を許さなかった。手車の許可もなかなか下りず、とうとう夜中になってしまった。

 暁に宮中を退出し、そのまま休んでしまったので、女御は誰とも対面しない。

 大宮は早朝から西の大殿に居る女御に会いに行かなくては、とばかりに正装の準備をする。他の娘達も皆それにならう。

 大宮は兵衛の君を使いにして、西の大殿に伺いを立てた。


「そちらへ参りましょうか。それともこちらでお待ちしましょうか」


 すると女御はのったりと身体を起こすとこう告げさせた。


「気分が悪いので、休んでからそちらへ参ります」


 とは言っても、彼女が母の元へ出向くのは早かった。


「まあ、私の方からあなたの方へと上がろうと思っていましたのに。何故また、ずいぶんとお顔を見ることもできず。ずいぶんと心配しておりましたよ」

「お暇を頂いて、ちょくちょくこちらへ下がりたかったのですが、母上、なかなかお許しが出なくて…… 今度の退出だって、病気にかこつけてやっとですもの」


 おやおや、と母宮は帝の彼女に対する執心を半ば微笑ましく思う。

 現在の帝には東宮をはじめとして、たくさんの宮が居るが、その大半がこの正頼の大君である仁寿殿女御腹である。

 彼女は三番目の弾正宮だんじょうのみや、四番目の帥宮そちのみや、六宮、八宮、女一宮、女二宮、女三宮と、入内以来次々と生んでいる。

 対して中宮は、東宮と二宮、五宮の三人だけであり、あとは式部卿宮の女御に七宮、更衣の一人に九宮が生まれているだけである。

 そして。


「御気分が悪いと伺いましたけど、もしかして、おめでたですか?」


 すると女御は真っ赤になって小さな声で「ええ」と言う。


「それが恥ずかしくて」

「何を仰います。しばらくお産もなくて私は寂しかったのですよ。恥ずかしいなんて全く」


 くすくす、と大宮は笑う。


「で、いつ頃ですか」

「予定ではこの七月ぐらいに。いつもと違って身体の調子が良くないので、それにかこつけてさっさと退出しようと思ったのですけど、帝が『もう少し様子を見て』と仰るから、ついのびのびになって」

「それもまた、あなたが帝から愛されているということでしょうねえ」


 それを聞いて大宮は安心する。

 中宮が娘にいい気持ちを持っていないことは良く知っているが、結局は帝である。帝が彼女を護ってくれるだろう、と大宮は信じていた。

 しばらくして正頼や妹達も揃い、明るく、賑やかな笑いがそこには響いた。


   *


「ところで母上」


 ある日、話の折りに女御が切り出した。


「あて宮は年頃になったと聞きますのに、どうして婿君をお決めにならないのですか?」

「そう、実はそれをあなたともご相談したかったの」


 大宮はふう、とため息をつく。 


「何と言うか、色々ありましてね」


 今までの懸想人のことや、東宮のことなどを大宮は女御に説明する。


「このままじゃあいけないとは思っているのだけど、どうしたものかと。あなたはどう思われます?」

「考えの足りない私の言うことですから、お聞き流し下さいね」


 そう前置きしてから女御は続けた。


「ともかく、そろそろいい加減に決めた方がよろしいですわ。父上は何とおっしゃっているのですか?」

「場所が狭くなる程に求婚者が多いので、未だ迷っているのですよ」


 そんなに居るのですか、と女御は笑う。


「この間相談した時には、東宮さまに差し上げようと決めたご様子だったけど。でも神泉苑の宣旨のこともありますからね。一度決めたことだけど、何となくいつまでもぐずぐすと決めかねているという感じなのですよ」

「お母様としてはどうなのですか」

「入内させても悪くはないと思うのですよ。でもやっぱり私もね、あなたが居るから心配は無いと思っても、東宮さまの側にはたくさんお妃がいらっしゃるし、肩身の狭い思いをするのではないか、とか色々考えてしまって」

「東宮さまでよろしいではないですか」


 娘はすっぱりと言う。


「今でも東宮さまからは御文がございますか?」

「ええ」

「だったらぜひ入内なさいませよ。確かに東宮さまの所には今の天下の美姫が入内しているのは確かですけど、その方々にいつまでもご寵愛が続くという訳ではないでしょう」


 くすくす、と女御は笑う。


「そういうものですか?」


 大宮は怪訝そうな顔で娘に問う。

 だが一方、宮中で今まさに寵を争っている彼女がそういうのなら、そうかもしれない、とも思う。大宮は夫の愛を争うということには慣れていない。


「今、東宮さまのご寵愛深く、時めいているのは院の女四宮と右大将の大君のお二人ですわ。そのお二方以外はさほどのことはございません」

「左大臣の大君がやはり素晴らしい方だと聞きますけど」

「……」


 女御は笑って答えない。


「ともかくそのままあて宮を里住みさせておくなんて、もったいないですわ、お母様。入内した時には、できるだけ東宮さまとお二人になる様に、私のほうからも計らいましょう」

「そういうことができるのですか?」


 ふふ、とそれにもやはり女御は笑って答えない。


「東宮さまは下手に浮いた噂も無い方ですから、一度あて宮を手に入れたら、もう大変だと思いますわ。……真面目な話、先だって入内された方々の中にも、なかなか御子が生まれなくて皆気を揉んでいるのですよ」

「まあ」


 そういう問題もあったか、と大宮は改めて驚く。


「そういう事情もありますから、あて宮の入内は遅れていたとしても大した問題ではありません」


 先に皇子を生んだ方が勝ちだ、と女御の言葉は暗に示していた。


「そうでしょうかね。父君はそうお考えかもしれませんね」

「父上は考えているはずですわ。私が考えているくらいですから。それに帝も『東宮妃に若い方が居ないね』と少し残念そうでしたもの」

「帝までそんなことを」


 はい、とにっこりと女御は笑う。


「可愛い子ですからね、色々と気を揉んでしまうのですよ。でもまあ、あなたにあやかれば変なこともありますまい」

「そうまで言われては私が大変ですわ」


 その日一日、女御は母宮の元でお喋りをしたり、琴を弾いたりして楽しく過ごすこととなった。

 別の場所では正頼や兄弟達が集まって管弦の遊びをしていた。

 女御のところには、妹達から何かと面白いもの、綺麗なものを送ってきたりする。

 母宮はそれを見て「皆こちらへいらっしゃい」と誘いの使いを出したので、皆揃ってやって来る。


「右大将どのから果物や破子が届いております」

「まあ、またずいぶんと耳の早いこと」


 楽しい時間は夜更けまで続いたということである。

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