【第一幕】 大きくなれなかったダイヤモンド

「で、このMCH神経っていうのは、脳の記憶を司る部分、海馬に直結する神経の一部なんです。他にも色々な働きをしますが、MCH神経は記憶作業――睡眠時の夢と大きく関わっています。先ほどの授業で話した通り、人間が記憶を行うのは脳が働き体が寝てるレム睡眠時で、その時夢が副次的に発生するんです」

「ほう? つまり俺は、そのMCHってのがおかしいから、過去の夢見るって事か?」

「ええ。あくまで推測ですけどね」

 そう言うと、タブレットをスワイプして何かの資料の画面に遷移させる。文字を追ってみると、先述のMCH神経の活動が及ぼす作用の研究結果だった。うむ、初見じゃ概観も理解出来ん。

「これは"人は何故夢の内容をすぐ忘れるか?"という研究の中で、このMCH神経が夢での記憶を消去していた旨が書かれてます。要するにこの神経が活動しないと、夢の記憶を現実として捉える危険性があったって話ですね。当然MCH神経の活動が鈍い人ほどその割合は増加します。夢を現実と捉えてしまえば、記憶情報の齟齬について行けなくなり、脳に重大な障害が発生する可能性があるんです。つまりだーりん、かなりまずいです」

「そ、そう言われてもな。夢って荒唐無稽だし、ずっと覚えてる方が珍しいけど」

「そこで過去夢なんです」

 青ヶ氏が別の資料を俺に見せる。今度は論文ではなく、メモアプリに手書きで記しながら説明する。

「睡眠は脳に記憶を定着させる作業です。その際、通常ならアトランダムに処理して情報を整理するため、処理光景を見れる夢の中では、かなり突飛な事象が連続して起こってるように思えるんです。けどだーりんの場合ですと、MCH神経の異常のためか、このアトランダム処理が行えてないため、とりあえず脳が覚えておかないといけない優先度の高い記憶を、忘れないようにと活動するんです。その対象が蓄積された過去の記憶、忘れられない過去。故に過去夢として反映されてるんですよ」

「……それって」

「もう既に、異常が出てるって事ですね」

 睡眠の仕組みを示すフローチャートには、そのMCH神経が夢の記憶を消す以外の働きもある事が示されているのを見て、愕然とした。

 直接的に記憶障害等は実感していなかったが、ここまでなっていたのか。変だとは思っていたが、これはかなりまずい状態なのでは。

「なんでMCH神経がおかしくなったのかは断定しかねますが、とにかく、このまま放置するのは良くありませんよ。確実に悪化していきます」

「……これってなんか薬とか飲んで治るものなのか?」

 俺の疑問に、パチンと弾いた指をこちらに向ける。

「アイシンクソーバッド。病院で何とかしてもらうのはあまり推奨しませんね。まだこの類の新薬は十分な安全を担保出来てませんし、逆効果な可能性もあるかと。だから、これはわたしからの提案ですけども」

 そう言うと、青ヶ氏は何故か向かいの席に座っているなっちゃんを指差す。首を傾げる俺となっちゃん。何を言い出すつもりなんだこの小学生。

「まず、だーりんが"忘れたくない"と無意識に思ってる"思い出"を意識的に思い出すというのが一つ。例えばそれこそ、なっちゃんのような鮮明に脳に焼き付いてる相手ならば、他にも色々と記憶があると思います。それをバニッシュよろしくの"ある方法"で強制的に思い出させれば、呼び起こされた記憶が再び定着し、記憶定着の能力の低下を回避くらいは期待出来ます……って、なんでなっちゃんが赤くなってるんですか」

 真っ向から"忘れたくない相手"なんて言われて、青ヶ氏の指を掴んだなっちゃんがモゾモゾし出す。自分が俺の夢に出てると知ったら、まあ恥ずかしって事なんだろう。その反応を見て、俺もちょっと気恥ずかしい。

「で、その"ある方法"ってのは?」

「それはのちほどにしましょうか。わたしの研究室で行う必要がありますので……あともう一つ、だーりんに効果的な方法があります。これは特別な装置等必要なく、簡単に出来ます」

「ほう?」

 すると、突然こちらに体を預けてきた青ヶ氏。俺の胸辺りに小さな頭を置いて、ふと見上げてくる。

 花の香りがした。

「ずばり、今から"忘れない記憶"を増やす。これです」

「は? 何を――」

 その瞬間、俺は何が起こったか理解出来なかった。

 ただ分かったのは、青ヶきはるが、俺の首に細い腕を回して、顔を近づけて来た事で。

 彼女の幼い白い肌が、目の前にあった事で。

「例えばですが、こういう"初めて"は絶対に忘れないんですよ」

 そんな言葉が聞こえてすぐに――唇が塞がれた事だけだった。

 つまり、まあ、要するに。

 キスされたのだ。

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