第11話 平未久 2

 未久は大急ぎで北の砂岸にやってきた。間一髪、待ち人が中型のホバークラフトに乗って姿を見せた時だった。

 楽園島の最新式。強烈な風圧が後方に放たれているのだろう。白い砂が踊るように舞っていた。

 ほうっと息を吐いた。

 あれに乗れたらどんなに楽しいだろう。

 そう思わない日はない。たとえ、やってきた人間が――最低のクズであったとしてもだ。


「お待ちしていました」


 言葉遣いに気をつけ、未久は微笑を浮かべて頭を下げた。ざっという音とともに、待ち人が砂の大地に足を着いた。

 体は濃い深緑の衣装に身を包んでいる。肌をさらさない仕組みの服には空気循環システムが備わり、常に体温を外に逃がすという機構を備えている。肩と背中には赤い糸で大きく縫い付けられた二十二の数字。

 顔にはフルフェイスのガスマスク。砂の世界で有毒物質を吸わないためだ。

 目線を通すだけのゴーグルから、男がじろりと未久を見つめる。

 くぐもった声が聞こえた。


「久しぶりだな。調子はどうだ?」

「ありがとうございます。おかげで助かっています」


 男は鼻で笑いながら、ずかずかと島へ踏み込む。未久が後につづいた。砂が鳴く音が異様に耳障りだった。


「この前の雨で小屋は大丈夫だったのか?」

「心配していただいてありがとうございます。なんとか耐えました」


 男が心配しているのは自分たちの身の安全ではない。

 未久はそう思いながらも神妙に頭を下げた。

 ほどなくして、自分以外が使用しない北の小屋についた。扉はない。入口を細くして、ビニールをかけて隠しているだけだ。

 むわりとした熱気を肌に感じつつ、未久はわずか四畳ほどの広さの室内の奥に男を誘導した。


「相変わらず貧相な場所だな」


 蔑む言葉とは裏腹に、ゴーグル超しに感じる視線は熱を帯びていた。やや荒くなった吐息が、排気弁をせわしなく動かして漏れ出る。

 分厚い手袋を外した手には、指輪が見えた。

 未久は視線をそらしながらも媚びるように男に近寄った。口内に広がる虫唾を必死に飲み干し、腰に回された手を受け入れた。

 ゴーグルに映った自分の顔は、幽鬼のように真っ白だった。

 声も、目つきも、匂いも、手も――そのすべてが大嫌いだった。


 ***


 平未久は八歳の時に被災した。

 国語が好きな負けず嫌いな少女だった。

 体育の時間に、同級生にいつまでも跳べないことをからかわれたことがきっかけで、縄跳びに夢中になった。しかし、周囲がどんどんと上手になる中で、彼女はお世辞にもうまいとは言えなかった。

 元来不器用な未久は、縄跳びに限らず、テストでも、絵を描いてもクラスの中で下の方だったのだ。

 好きなことだ。もちろん、隠れて練習もした。


 先生の教え方が違うんじゃないか。


 そう疑い始め、図書室で『上手な縄跳び』という古い本を探してきて、正しい方法を身に付けようとした。

 縄の長さをきっちりと調整し、同級生が跳んでいる様子を見てイメージトレーニングも重ねた。


 だが、その通りやっているはずなのに、なぜか縄は数回で自分の足首に当たる。素足に縄が何度も当たり、ひどい赤みができた頃、未久は我に返った。

 どうしてみんなと同じことができないのか。何もやり方は間違っていないはずなのに。

 心の底から愕然とし落ち込んだ未久だったが、誰にも相談はできなかった。

 当たり前のことができない。それがひどく恥ずかしいことのように思えたからだ。


「好きに生きていいから、お母さんを呼ばないで」


 縄跳びを教えて、といった未久に母が返した言葉だ。

 派手に着飾った母は、アパートを出がけに未久に言った。

 うろんな瞳には未久が映っていなかったように思う。

 いつも酒臭い息を吐き、些細なことで壁に皿を投げて割る親だったが、未久は母が好きだった。父がたまに家にいるときの母の笑顔はとても素敵だったのだ。


「お仕事……がんばってね」


 寂しさを我慢し、そう返した彼女に、母は舌打ちをして出ていった。

 その日以降、母は一日中、不機嫌になった。

 父と母は昔からネグレクト気味だった。

 ほぼ家にいなかった父にいたっては顔すら定かではない。明確な虐待こそ無かったものの、未久に対して感心を示したことは一度もなかった。


 もちろん、授業参観に親が顔を出したことはない。遠足のバスの送迎に来たこともない。夕暮れの下、同級生が親と手をつないで帰る光景の中、未久は唯一教師に見送られて、とぼとぼと帰宅するのが日常だった。


「未久さん、お母さんかお父さんと連絡とれるかな?」


 中年の担任教師が、帰り際の未久を呼び止めた。「昼は家にいるけど」と答えた未久に担任は怪訝そうに眉を寄せた。


「ほんとに?」

「うん。毎日いるよ」


 担任は「そう……」とつぶやき、片眉を吊り上げた。

 未久は意味がわからなかった。

 だが、何かお金が絡むことだったのだろうとは理解できた。担任が去り際、他の先生に「払わず逃げる気みたい」と話していたのを耳にしたからだ。


「帰ったら聞いてみようかな」


 小石を蹴りながら下校していた未久は「やめとこ」と首を左右に振った。

 母は疲れているのだ。機嫌が悪いのはそのせいだ。自分のことで精いっぱいなんだ。

 子供心に責任を感じていた。


 そして――あの日がやって来た。


「お母さんっ!」

 三階のアパートの部屋のベランダに砂が押し寄せた。未久は必死に叫んだ。誰かに助けてほしくて、母に帰ってきてほしくて。

 母は災害の日から家に戻らなかった。


 不安で不安で仕方がなかった。外にも出ず、わずかのインスタント食品を食いつないで生活していた未久は、我を忘れてベランダに飛び出し叫んだ。

 恐怖は頂点に達し、涙を溢れさせて周囲を見回した。しかし、頼るべき母の声はどこからも聞こえなかった。

 隣に住む人の悲鳴を耳にし、砂の中で屋根に乗る人に必死に救助を求めた。


 あの後のことは詳しく覚えていない。


 未久は生き残った人たちが身を寄せた大型ボートに拾われ、いち早く巨大化した北のゴミ島でしばらく暮らすことになる。

 何年かの流砂生活は幼い未久には心身共に厳しかった。集団生活用の壁の無い小屋の端で座ったまま眠り、起き出しては島のリーダーが用意した配給の食事をとりあった。


 時間の感覚などなかった。落ち窪んだ目をした多数の人々の中、寝ては起き、空腹に苦しみながら生き延びていた。ぼんやりとこのまま死ぬだろうなと考えていた。

 所持品が無くなったことも数えきれない。夜にあったものが朝に消えることにはあきらめていた。


 そんなある日、よく世話をやいてくれていた女性に声をかけられた。

「ねえ、未久ちゃん。仕事しない? 食事分けてもらえるのよ。服も手に入るし、髪だって洗えるわ」

 不健康な顔をゆがめて笑う女性に、未久は無言でうなずいた。

 簡単な仕事の割には実入りが良いと教えられた。内容は詳しく聞かなかった。周囲から漏れ聞こえる声で、薄々こうなるだろうな、とすでに達観していたからだ。

 紹介されたのが、二十二番の男だ。


「楽園島の審査官だ。俺が気に入れば、連れていってやるぞ。あそこには何でもあるからな」


 ごわごわの防護服に身を包んだ男は、浅薄な笑い声をあげて、空を指さした。

 選ばれた住人になる。

 そういう意味だと分かっても実感はなかった。


「何でもいいです」


 首を縦に振った。

 冷え切って閉じた心には寒々しさしか広がらなかった。

 生活は幾分楽になったが、代わりに周囲の妬みはひどくなった。特に仕事をあっせんした女は、新しい衣服に身を包んだ未久を目の敵にするように暴力をふるってきた。

 腹いせに奪われることも多かった。


「審査官にちくったら砂に放り込んでやるから」


 それが決まって聞かされる捨て台詞だった。

 どんなに殴られても未久は抵抗しなかった。抵抗することは生きることに直結する。

 すでに満身創痍の未久には、そんな気力が湧かないのだった。

 無味乾燥な生活に、変わった男が乱入してきただけだ。何も変わっていない。


 生きてる意味ないじゃん。明日どこかで死のう――


 そう心に決めた翌日の朝。

 未久は奇妙な二人組の男たちに目をつけられた。

 安全ヘルメットをかぶった那須平に、黄ばんだ白衣に身を包んだ長い白髪の二郎だ。

 自分よりも明らかに年上の二人は開口一番、言った。


「ゴミだな」

「ああ、ゴミだな」


 ――ゴミとは誰のことだ。


 未久の思考に一瞬空白が生まれた。自分のことではないに違いないと思ってあたりを見回した。

 だが、自分しかいなかった。

 三角座りでぼんやりと砂を眺めていた未久の瞳に光が宿った。

 落ちてくる視線を睨み返すと、二郎が、にぃっと口端をあげていった。


「おっ、ゴミに火がついたな」

「みたいだな」


 まだ言うのか。未久の顔に一気に熱が灯った。

 この二人のおっさんは、よりにもよって島で一番綺麗な服を来た自分をゴミだ、ゴミだと笑ったのだ。

 自分のどこにこんな気持ちがあったのか。怒りがむくむくと膨らみ、湧きあがる衝動は体を突き動かした。弾かれたように立ち上がった。


「誰がゴミよっ!」


 周囲の視線が自分に集まったが無視した。

 みんなでがんばろう。未久は若いのにすごいねえ――周囲にかけられてきた数多の声が、耳奥でリピートした。


「おっ、ゴミにも誇りはあったみたいだな」

「違うぞ、なっさん。こいつは誇りを売った割には被害者面したゴミだ」

「はあっ!?」


 こんなに怒りを感じたことはなかった。小さなころからいい子だった自分が初めて汚い言葉を放っていた。

 けれど、二人の毒舌は止まらなかった。それどころか、にやにやと未久の顔を眺めている。

 しばらくのにらみ合いが続き、那須平は「行くぞ」と二郎に告げた。


「これにて蘇生手術は完了ってことで」

「確かに、もう十分だな」


 呆気にとられる未久をよそに、二人は何事もなかったように、あっさり歩き出した。

 途中、日陰に横たわらせていた砂サメを那須平が拾い上げた。すごい力で驚いた。

 だが、わざわざ今の言葉を言うために荷物まで置いて近づいたと理解し、ますます頭が沸騰した。


「じっさんも物好きなこった」

「見ていられなくてな。直感が当たってよかった」


 当の本人を無視して、二人組は無人の荒野を行くように軽い足取りで離れていく。まったく振り返りもしない。謝罪もない。

 未久は、たまらず声を上げた。


「あんたたち、もういっぺん言ってみろ!」


 那須平が足を止めて振り返った。

 めんどくさそうな視線を未久に向けてため息をつくと、驚きの表情を浮かべる二郎に横目を向けた。


「ちょっとやりすぎたろ? だから俺は一回でいいって言ったのに。じっさんが重ねるから」

「……まあ、結果オーライだ」

「あっそ。えっと、あんた名前は?」


 那須平はやってられないとばかりに手をひらひらと振ると、未久に尋ねた。


「なんで名乗らないといけないわけ」


 未久の瞳にはめらめらと怒りが渦巻いていた。


「……確かにやりすぎたな」


 二郎が申し訳なさそうに頬をかいた。


「まあ、名前はあとでいいか。おい、あんた。どうせ死ぬつもりだったろ? 腹が立つならついてきな。ここにいたら……ほんとに死ぬぞ」

「おい、なっさん、彼女を連れていくなら、リーダーに話をしておいた方が良くないか?」

「そうか……はあ……おやっさんに、また物好きなやつだって笑われるな」


 那須平は眉根を寄せると、がっくり肩を落として歩き出した。

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