リナリアは深淵に向かい2

――未明、都内一等地にそびえる最も見晴らしのいいホテルにて。


誘宵シローは地下駐車場に白金のロールスロイスを止め、ロックをかけた後、裏口から昼間のような明るさの絢爛なエントランスホールへ入る。

足早に大理石の床を進んだ先に、エレベータガールににこりと社交辞令的な笑みを浮かべて28階を告げる。

夜勤で疲れた表情を一気に恋する乙女のように紅潮させた妙齢のキャリアウーマンは、麗人の宿泊するスイートルームのある階層のボタンを押した。


エレベーターに乗り込み、奥の手すりに体重を預け、強化ガラス越しの夜景に目をやる。

こちらをチラチラと気にする自分に気のある女が透明のスクリーンに投影されていることに満足感を覚えながら、夜の帳に不規則に飾り付けられたメレダイヤのような星々、そして一際大きく輝く満月を見つめた。


シローはしばし、フロアに着くまでのほんの5秒程度だが、瞼を閉じ、月光欲を楽しむことにした。


彼は、『彼ら』は、月の透き通った光を浴びることを好む。

神秘的な力を取り込む儀式、狂気を呼ぶ忌避行為、女性的魅力を増進させる等、属する共同体により様々に定義づけられる割に科学的根拠はなく、効果の程も個人の感想にとどまる、ただの衛星の光の反射だ。

『彼ら』にとってもそれは同じで、「なんとなく」種族全体で愛好し、精神が満たされた「気持ちにさせてくれる」ものだった。


ポーン。

エレベータがゆっくり制動すると同時に瞳を開く。

足りない分は自室で堪能するとして、名残惜し気に、しかし少し穏やかな心情で、そこを後にした。


「2805」の部屋のロックをカードキーで開錠し、中に入ると、小さな異変に気が付く。


私物のロングブーツとベーメルの革靴、そして同居人のスクールローファー。

シューズラックに収まった3足の下に、乱暴に脱ぎ捨てられた見慣れないリボンのついたハイヒールが転がっていた。


(アイツ…)


一転、預かりものの駄犬が何らかの面倒ごとを仕出かしているかもしれない胸騒ぎと、気保養で解れた心が台無しになったことに苛立ちを覚えながら、僅かな衣擦れの音と人の気配のするリビングルームへ向かう。


出入り口の角を掴み身を乗り出すようにして部屋へ入ると、同居人の少年深森狼牙が、カーペットに横たわった女の上にまたがり、上半身の着衣を脱がそうとしている真っ最中だった。


こちらを振り向いた彼はなぜか安堵の表情を浮かべているようにも見えたが、とりあえず、横っ腹を足で蹴り飛ばした。


「ッッ…――でッ!?」


手加減込みだが「押し込む」ように力を加えたため、狼牙は女の横側に倒れ、勢いで椅子の脚に頭をぶつけた。


「ってぇなぁ!!殺すぞてめぇ!」

「おいチンコロ。お前は『マテ』も上手にできないのか?」


狼牙がどこで誰とよろしくやろうが特に彼に個人的関心はなかった。

だが足がつかないように根城を転々としている状況下で、どちらかが面識のない人間を住かに入れる軽率な行いは、まったくもって看過できない。


「はぁ?帰っていきなり何なんだよてめぇは。


てかてめぇこそちゃんと躾けとけよ!コレお前の女だろ!

こいつに押し倒されてちょっと吐いたんだよ!


それで…」


「そうか、吐くまで酔わせたのか。必死だな。」


「聞けって!俺が!吐いたんだっての!!」


「そうか…。



…何?お前が?」

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