狐の胃をかる虎物語

馬東 糸

第1話 【狐と蕎麦】

彼女とはどのような関係かと聞かれた時、私はいつも回答に窮してしまう。ただ、周囲が心配をしているような、そんな安易な関係ではないことは確かだ。

 ことの始まりは入学式であった。体育館に集められた新入生はこれからの学生生活を夢見ているのか、満面の喜びと期待と少々の不安を絶妙なバランスで配合した表情で目を猫のようにくりくりとさせていた。今にも隣人と長く辛かったであろう受験期間を乗り越えた喜びの抱擁をして、歓喜の歌を歌い上げ、いち早く人類皆友人計画を始動させたいといった面持ちである。しかしながら、実は私はその場に居なかった。そのようなハレの場に同席することが出来ないのは非常に残念ではあったが、暁を覚えなかったのだから仕方が無い。

 そんなことでいっそ式が終わる頃に向かえばよろしいと考え、蕎麦でもと大学近くの末吉兆庵へ行くことにした。この店の良いところは十割蕎麦の味もさることながら、いつ行っても客がいないところにある。原因の一つとして、店の立地にある。まるで何か試されているのかとも思える狭さのビルとビルの隙間の路地を入って、そこから更に路地から路地へと入った挙げ句、階段の上り下りをさせてからやっと着くのだから普段客なんぞいるはずもない。また、店内もテーブルが二つあるだけの隠れに隠れた名店と言える。

 店の門をくぐると、店内から慌ただしい気配を感じた。嫌な予感がしたため引き返そうかとも思われたが、私の口は既に蕎麦の口である。意を決して店の扉を開けた。

 店内には、赤い晴れやかな着物を身につけた小柄な女性が一人いるだけであった。

「いらっしゃいませ! 今ちょっと忙しいからそこに座っててください!」

 そう言われたので仕方なく座った席は彼女が座っているテーブルの奥側であった。夫婦で商っている店なので、奥さんが先程から慌ただしく厨房と彼女のいるテーブルを行き来していた。往復で変化があるとすれば、往路は山盛りにあった蕎麦が復路では綺麗なざるに変わっていることであった。

 注文は暫く取りに来ないだろうと察し、失礼ながら彼女の食べているところを観察することにした。期待していたのは余程豪快に、丸呑みをするような姿を思い浮かべていたのだけれど、そこに座っていたのは実に上品に、咀嚼し、味わっている未だ幼さの残る女性の姿があるのみであった。まるで茶道を嗜んでいるのかと見間違えるほど、美しい所作である。それにも関わらず、何故そんなにも早く、そしてその小柄な身体のどこにあれだけの量が入るのかよくよく見ても終ぞ分からなかった。

 つい夢中になって見過ぎてしまったためか、彼女は私の視線に気づき箸を止め、桜色に頬を染め上げつつ、初めて口を開いた。

「あちらの方の分はまだありますか」

 すっかり私の存在を失念していた奥さんはこちらにぎょっとした表情を浮かべて答えた。

「これで今日は最後です」

 私はぎょっとした。散々目の前で食べているのを見せられた挙げ句、今彼女の机に置かれたザルが最後だと言うのだ。

「ならば、あちらへ」

 彼女が私の方向へ手を向けた。

 私は会釈をして、彼女に咀嚼されるはずだったそれをありがたく頂くことにした。その間、彼女はそば湯を嗜んでいるようだった。

 食べ終わり、私もそば湯をいただく頃になると、彼女がふわりとこちらに歩いてきて、隣に座った。

「どうされたのですか」

 近くで見ると、外国の血が入っているのか瞳の色は紺色をしており、肌は白く、睫は私の二倍ほどの長さであるのが分かった。私は不本意ながら彼女の蕎麦を食べてしまった罪悪感で声が多少なりとも震えていたのかもしれない。決して見目の美しい彼女と話すことに緊張していたわけではない。

「お願いがあります」

 俯きがちに、少し顔を赤らめて消え入りそうな声が発せられた。こう言われてしまっては、断ることが出来る者などいないだろう。私としたことが内容も聞かず、二つ返事で了承してしまった。

「何でも構わず仰ってください。お金の持ち合わせこそありませんが、私にかかれば大抵のことは解決できるはずです」

 自分でも大きく出たなとは感じつつ、止まらない口を好きに遊ばせておいてやった。

 彼女は俯いていた顔を更に深く、既に耳まで赤らめていた。髪に挿してあるかんざしに狐のような模様が見えた。

「その、お金のことなのです。普段お財布を持ち歩く習慣がなく、この度入学式前に時間があったので興味深い路地を発見し、うろうろしていたら、美味しそうな蕎麦屋さんがあって。そのまま、入って食べ始めたら止まらなくなってしまって……」

 もう最後の方は鈴虫が鳴いているのかと思うほどの声しか出ていなかった。

「わかりました。私がなんとかするので、どうぞ早く」

「誓って必ず返します。住所と連絡先を教えて頂けますでしょうか」

 こういった場合、お金は戻らないと思っておくのがよろしいと実家の祖母に教えられたことがある。私はその言いつけを守り、諦念に似た感情で店から先に出させた。

「では、彼女の分も一緒にお会計をお願いします」

 奥さんはボタンの沈んだ古いレジに懸命に入力をしていったが、途中電卓に切り替わり叩く音が愉快に店内に響いた。まるでその指さばきはリストのラ・カンパネラを彷彿とさせるものであった。軽快な音が止み、値段が告げられた。

「五万と三千円になります」

 私はぎょっとした。おそるおそる財布の口に手を掛け、万事休すと思われた。さらば、輝かしい大学生活。始まりもしなかったが、これで私は食い逃げの汚名と共に心中するのだと覚悟を決めた。

 ところが、天は私を見放さなかったのか家賃の振り込み分の六万円が入っており、かろうじて支払うことが出来た。

 店の扉を開け、めくるめく出来事に頭を弾かれたような気持ちになったが人助けをしたのだと言い聞かせ私は大学へ向かった。彼女の姿は既に無かったので、狐に化かされたのかと何度か財布を確認したが、その度現実に燃えるような嫌悪感を抱く羽目になった。

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