ものすごい勢いで先が気になり読み進んでしまいました

これ、1560年の段階なんですよね。で、書かれている衝撃から変わってしまった歴史上の出来事を考えると次の内容が疑問点として浮かび上がってきます。


・徳川家康が松平元康の段階で戦死しているならば江戸幕府は当然ない。武田・上杉・伊達のその後がどうなるか大いに気になる。特に東北の諸大名は最上義光が述懐するように魑魅魍魎のような親戚関係だ。また家康の嫡男信康は史実では武田と通じて切腹ということになるが、家康がこの世にいない以上氏真にどう処遇されるのか今後の展開が気になる。


・転生者の一人とされる最上義光は史実上の最大の見せ場が慶長出羽合戦であること。(1600年)
 この戦いは「北の関ヶ原」と呼ばれ、関ヶ原の戦いが徳川家康と石田三成の間で行われるに際し、最上義光が東軍について山形で上杉軍を引き付けて戦った合戦です。直江兼続はこの戦いで手痛い一敗地にまみれ、最上家は伊達政宗を出し抜いて東北最大の大名となることに成功しますが、その子孫は義光の没後お家騒動を起こし、江戸幕府から「一門不届きである」として改易されてしまうのです。転生者の戦いの一つとして書けなくなっちゃうかな~~。
 さらに豊臣秀吉が織田信長の草履取りとして三河に封じ込められたとなれば最上義光は秀吉の甥である豊臣秀次に娘(駒姫)を側室として差し出さずに済むな。それがもとで駒姫は秀次に連座して死罪となり、最上家は関ヶ原の戦いで家康についたのだから。
 この慶長出羽合戦では最上義光は二千丁の鉄砲を駆使して上杉軍を撃退する有名なエピソードがあるので生かしてほしかったな~~。なお、義光は兜に銃弾を受けて負傷するがその兜は山形県に実在します。山形城には最上義光の素晴らしい騎馬武者像もあります。あれは絵に欲しい!作品中のどこかに使ってください。