第一部

第1話 誰だよ

 何だ? ひどい頭痛だ。

 覚醒しきらない意識の中で昨夜の記憶が蘇る。


 時期外れの部署移動。

 俺の送迎会って事もあって、久しぶりに盛大に飲んだ。


 飲み会の会場となった最寄りの駅に着いたのは憶えているが、そこまでだ。

 どうやって帰ってきたのかも憶えていない。


 二日酔いの頭痛か。

 うわっ、身体が重い。いや、節々がかなり痛い。


 寝返りを打とうとしたところ、倦怠けんたい感と関節の痛みで寝返りを諦めた。

 これ、二日酔いじゃないな。風邪か? 


 インフルエンザじゃないだろうな。

 明後日から新部署に出社なのに、いきなりインフルエンザで病欠とか心証悪すぎるだろ。


「お殿様! お気づきになられましたか! 今、久作きゅうさく様をお呼びしてまいります」


 突然若い女性の声が響いたと思うと、慌しく飛び出していく気配がした。


 え? 女性? 家には父さんと母さん、それに俺の三人暮らしだ。

 若い女性はいない。


 いや、もしかして自宅に帰りついた記憶が無いって事は……誰かの家に泊まったのか?

 それで二日酔いの俺を看病してくれていたのか? 


 ともかく、このまま寝ている訳には行かない。

 取り敢えずお礼を言わないと。それに誰の家だ、ここは。


 二日酔いの頭痛と関節の痛みに耐えながら半身を起こすと、純和風の建物の様子が目に飛び込ん出来た。

 純和風というのは誇張があるか。


 泊めてもらっておいて随分な言いようだが、どちらかといえば粗末で古ぼけた和風の家といった感じだ。

 よく言えば趣《おもむき)のある古民家風の和風建築。


 パンッと、勢いよく板戸が開けられて十代前半と思《おぼ)しき少年が飛び込んできた。


「兄上! 具合は如何《いかが)ですか? 湯漬けなど口に出来そうでしょうか?」


 勢い込んで話し掛ける少年は和服を着て髷《まげ)を結っている。


 人の家の事にあまり口を出したくないが、さすがに髷はないだろう。

 二日酔いか風邪かは分からないが、頭がボウっとしている事が幸いして驚きの声を上げずにすんだ。


「久作殿、殿はまだ熱も下がっていないご様子。今、薬師《くすし)が参りますので湯漬けなどはそれからがよろしいでしょう」


 そう言いがら部屋へ入ってきたのは二人目の髷だ。壮年の男で和服がよく似合う。

 熱のせいか、既に和服を疑問もなく受け入れている自分に気付きゆっくりと頭を振る。


「殿、先ずはお目覚めになられて良かった。顔色も随分と良くなられたし、程なく回復しましょう」


 壮年の男の言葉に続いて、大きな笑い声が部屋中に響いた。


 だが、それ以上に俺の頭に響く。

 今気が付いたが、半分ほど開けられた板戸の向こうには廊下があり、その向こうに和風の庭が広がっている。


 ここから見る限りでは随分と広そうな庭だ。

 どんな状況なのか分からない。


 だが、今はっきりしているのは俺の体調が悪いという事だ。

 その事実だけでも家人に伝えるため俺は口を開いた。


「看病、ありがとうございます。それと、まだ頭が少し……いや、かなりボウっとしています。それに関節も痛いし、熱もあるような感じです」


「兄上、無理はなさらず養生してください」


 だから誰だよ、君は。

 いや、久作と呼ばれていたな。


 いやいや、真顔で兄上とかおかしいだろう。

 自分の兄と兄の同僚との見分けが付かない気の毒な少年なのか?


 気の毒な少年の向こう、半分ほど開けられた板戸《いたど)の向こうに和服姿の若い女性。

 やはり和服姿の頭が禿げた壮年の男が見えた。


 今日、はじめて見る髷じゃない男だ。

 禿げた男が部屋へと入ってくるなり俺に話しかけてきた。


「目を覚まされたとか。幾分か熱が下がりましたか?」


 もしかして後ろにいる女性ではなく、この禿げの男が看病してくれていたのか?

 状況は掴みかねるがお礼だけは言った方がいいだろう。

 それと俺の体調が悪いのは訴えておこう。


「ありがとうございます。先程も言いましたがまだ頭痛がして頭がボウっとします。それに関節に痛みがあります」


 禿げた男は俺が病状を伝え終える前に、久作と入れ替わるようにして布団の側《そば)に座ると、『どれ?』などと言いながら俺の額に手を当てた。


 久作と壮年の髷、そして後ろに控えている若い女性が心配そうに俺の事を見ている。

 冷静になってみると、もの凄い違和感のある状況だ。


 ゆっくりと周りを観察していて、真先に浮かんだ単語は『江戸時代の侍屋敷』だ。

 しかしもっと冷静になってみると分かるが、女性の髪形が江戸よりもさらに古い。


 それに和風建築にしては障子《しょうじ)ではなく板戸だ。

 しかも畳ではなく板の間だ。

 フローリングなどといった洒落《しゃれ)たものじゃない。


 周囲を観察していると、少なくとも普通ではない状況にあるのは理解出来た。

 俺からあれこれと話をするのはやめておこう。


 こちらは最低限の問い掛けと受け答え、あとは向こうに話をしてもらって状況を探る。

 よし、これで行こう。


 禿げた男が俺に向かって平伏するとおもむろに話し出した。

 まるで江戸時代か戦国時代だな。


「竹中様、峠は越えました。あと三日ほど安静になされば治るでしょう」


 峠ってなんだよ!


 そんなに危険な状態だったのか?

 俺は禿げた男に再度お礼を言うと、俺の事を兄と呼ぶ少年――久作に向き直り空腹であることを告げた。


「畏《かしこ)まりました。ハツ、湯漬《ゆづ)けを用意してくれ」


 久作にそう命じられると後ろに控えていた女性はすぐに部屋の外へと出て行った。

 それと同時に禿げた男が髷を結った壮年の男に頭を下げる。


「善左衛門《ぜんざえもん)様、私はこれで失礼させて頂きます。もう大丈夫とは思いますが、何かございましたら使いの者を寄越してください。竹中様のためにいつでも駆けつけますので」


「おお、ありがとうございます。これで当家も安泰です」


 善左衛門はまた豪快に笑っていた。

 響くんだよ、その声。


 いや、それよりも今もそうだが先程も俺の事を『竹中様』って呼んでいたよな。

 どうやら俺は竹中とかいう人と間違われているようだ。


 しかし、竹中なんてヤツは俺の同僚にも昨夜の飲み会にもいなかったはずだが……

 善左衛門と久作が禿げた男を見送るため部屋を出たので、一人部屋に残された俺は辺りを見回していた。すると、側《そば)にあったタライと手ぬぐいに目が止る。


 あれを額に当てていたのか。

 まだ熱もあるようだし、少し寝るか。


 手ぬぐいをタライの水に浸けると、その水面に見知らぬ若い男の顔が映っていた。

 髷のある男だ。誰だよ、お前。


 ◇

 ◆

 ◇


 湯漬けねぇ。

 時代劇とかで何度か見たことあるが、なんとも味気ない食べ物だ。


 俺は湯漬けを持ってきてくれたハツさんに残ってもらい、世間話をするようにあれこれと聞き出した。

 方針変更だ。


 ある程度積極的に話し掛けないと欲しい情報も手に入らない。

 そこで最も安全そうなハツと呼ばれた女性と会話をすることにした。


「すまないね、ハツ。いろいろとくだらない事ばかり聞いて。どうも熱で記憶が飛んじゃっているみたいなんだ」


「滅相もございません。お殿様のお役に立てるのでしたら何だってします。何でもお申し付けください――――」


 会話をしている最中も、ハツさんはニコニコと愛嬌のある笑顔を絶やさずにいてくれた。


 湯漬けをゆっくりと食べながら愛嬌のある若い女性と会話をする。

 独身の俺にとっては夢のような時間だった。


「――――善左衛門様か久作様をお呼びいたしましょうか?」


「いや、大丈夫だ。それよりも少し休みたい。善左衛門と久作の二人にもそう伝えておいてくれ」


「それでは、何かございましたらお呼びください」


 一通りの情報を仕入れたところでハツさんを下がらせると、俺は再び病《やまい)を理由に布団に潜り込んだ。

 そして、ここまでの事を整理するために思案を始める。


 善左衛門か久作から話を聞く前にハツさんから話を聞いて良かった。

 彼女から聞いて分かった事がたくさんある。


 今は永禄三年《一五六〇年)二月。

 戦国時代の真只中だ。あの有名な桶狭間の戦いが永禄三年《一五六〇年)五月だから桶狭間は三ヶ月後。


 それが終われば織田信長《おだのぶなが)が美濃への侵略に躍起なる。

 そしてここはその戦国のスーパースター織田信長にロックオンされる予定の国、美濃。

 迷惑な話だ。


 俺は竹中家当主、竹中半兵衛重治《たけなかはんべえしげはる)になっていた。

 先月、父の竹中重元《たけなかしげもと)が他界し、俺が家督を継いだ。


 まさに家督を継いだばかりで俺の相続に不満を隠さない連中もいる。

 家中は騒然とした状態だ。

 そんな組織の長となった。


 おかしいだろ!

 俺は現代日本のサラリーマンだった。


 年齢は三十五歳。

 死んだ憶えもなければ神様や女神様と出会った記憶もない。


 送迎会の席で飲みすぎて……

 目が覚めたら高熱で生死の境をさまよっていた竹中半兵衛重治として目覚めた。


 落としどころとして考えれば、死因は不明だが何らかの事情で平成日本の俺が死亡。

 高熱で死ぬ運命だった竹中半兵衛重治に、憑依したというところだろう。


 つい先程、自分が竹中半兵衛重治に転生したと知って、『俺が今孔明、戦国の名軍師? すげー』などと年甲斐もなく浮かれていた自分が恥ずかしい。

 名軍師は竹中半兵衛重治であって、俺じゃない。


 つまり、一般人の俺には無理だ。名軍師なんて出来っこない。

 それこそ間抜けな作戦で家臣と自分の命を無駄にするだけだ。


 それだけじゃない。

 竹中半兵衛重治って早死にするじゃねぇか!


 三十六歳だったっけ? 結核だか肺炎だかで死亡するはずだ。


 今の俺、竹中半兵衛重治が十七歳。

 余命十九年……考えただけで涙が出てくる。


 だが、ここで泣こうが喚《わめ)こうが何も解決しない。

 むしろ病気で気がふれたと思われて薄暗い座敷牢あたりに幽閉される未来しか見えない。

 下手したら口減らしに暗殺だ。


 そこで俺が取るべき生存戦略。


 隠居して結核なり肺炎なりになっても高い薬や医者に掛かる金が用意出来るとは思えない。

 隠棲していたら貧乏が死亡フラグに直結しそうな気がする。


 却下だ。


 身体を鍛えて病気に打ち勝つ体力と優秀な医者や良薬を容易に手に入れられるだけの財力が必要だ。

 出来るなら流通が整備されている世の中が望ましい。

 薬も簡単に手に入るだろう。


 そうなると今の当主の地位は都合がいい。

 問題は俺には竹中重治ほどの智謀がないということだ。


 一番簡単な解決方法は俺の変わりに策謀を巡らせる人材を手に入れること。

 小寺官兵衛孝高《おでらかんべえよしたか)が手に入ればいいのだが……まあ、無理だろう。


 次点として俺が智謀を巡らさなくても勝てる組織に所属するか、この竹中家をそんな組織にするか、だ。

 少なくとも美濃斉藤家に仕えていてはだめだ。

 歴史通りなら当主が無能すぎる。


 仮に当主の無能に目をつぶったとしても、人間関係が悪すぎる。

 何と言ってもトップに睨まれる訳だから地位向上どころか自分が生き残れるかも怪しい。


 そうなると手近なところで織田信長の下に付くか。

 或いは今川について桶狭間での敗北を未然に防ぐ。


 何れにしても史実通りに進んでもらっては困る。


 竹中重治は戦国時代において、『名軍師』、『無欲で清廉高潔な武将』と人気が高い人物だ。

 不幸にして短命であったことがさまざまな逸話に拍車をかけている。


 だが許せ。

 俺は欲深く下劣であっても長命でありたい。


 見ていろ! 歴史を変えて長生きをしてみせる。

 戦国時代における俺の、竹中重治としての生存戦略の始まりだ。

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