(16)天輝の悩み

 天輝が、人知れず2度目の信じがたい体験をしてから4日後。その日も賢人と悠真の帰宅は遅く、天輝は和枝と二人で夕食を済ませてから、ダイニングテーブルを挟んでお茶を飲んでいた。


(一度目は偶然、二度目は必然とか言うよね。一度だけならともかく、どう考えても気のせいとか、妄想とか、白昼夢として片付けられないんだけど……)

 当初は和枝と和やかに世間話をしていた天輝だったが、ふとした事がきっかけでこの半月ほど悩んでいる事を思い出し、真剣に考え込む。


(本当に精神科とか、心療内科を受診するべきかしら? だけど『最近二回ほど、異世界に行って帰ってきたみたいです』とか正直に言ったら、冷やかしだと思われて門前払いされないかしら? だけどやっぱり問題があるなら、一度はきちんと専門医に診て貰うべきだと思うし……)

 天輝が堂々巡りの思考に陥っていると、和枝が少々心配そうに声をかけてくる。


「天輝。さっきから、何をそんなに難しい顔で考え込んでいるの?」

 それで我に返った天輝は、慌てて弁解しながら謝った。


「え? あ、うん。ちょっと仕事の事。大した事じゃないんだけど、気になっている事があって。空気を重くしちゃってごめんなさい」

「それは別に構わないわよ。仕事が本当に大変みたいね。最近はお父さんも悠真も帰りが遅いし」

「お父さんとお兄ちゃんが忙しいのは、私とはまたちょっと違う理由だと思うけど……」

 溜め息まじりに言われた天輝は、自分も溜め息を吐きたくなった。するとここで、和枝が真顔になって唐突に話題を変える。


「それでね、天輝。私、考えたの」

「何を?」

「今日は偶々定時で上がって帰宅が早かったけど、天輝も帰りが遅い時があるじゃない?」

「それはそうだけど。それがどうかしたの?」

「昨今、色々と物騒な事件が多いでしょう? そんなものにいつ巻き込ませるか、全然分からないわよね?」

「それはまあ……、確かに。歩道を歩いている時に車が突っ込んでくる場合もあるし、自分で気を付けていても避けようがない災難は存在するよね」

 天輝が素直に頷くと、和枝が満足そうに立ち上がる。


「だから天輝の危険性を少しでも回避できるように、私、考えてみたの。今持ってくるから、ちょっと待っていて」

「うん、それは構わないけど……」

 何事かと首を傾げた天輝だったが、一度部屋を出た和枝が再び戻って来た時に手にしていた物を見て、目が点になった。


「お待たせ。明日からこれを持ち歩いてね」

「……お母さん、何これ?」

「見ての通り、チャッカマンと燃料用アルコール入りのミニボトルよ」

「…………」

「天輝。言いたい事は分かるわ。だけどここはおとなしく、持っておきなさい」

 無言で問題の代物を見下ろしている天輝に、和枝は真剣に言い聞かせる。しかし、到底「はい、そうですね」と頷く心境になれなかった天輝は、声を荒らげながら言い返した。


「あのね……。『持っておきなさい』じゃなくて! せめてどうしてこんな物を持ち歩かないといけないのか、説明して欲しいんだけど!?」

 それを受けて、和枝が大真面目に解説を始める。


「さっき天輝は、交通事故に巻き込まれる危険性について口にしたけれど、現実的に考えたら天輝のような若い女の子が一番遭遇しやすい危険性は、痴漢だと思うの」

「確かに交通事故よりは、痴漢に遭遇する確率の方がはるかに高そうね。それで?」

 天輝は母親の言い分を素直に認めて話の続きを促したが、彼女の精神的余裕はここまでだった。


「夜道とか人通りが無いところでそんな不届き者に遭遇したら、このボトルの中身を相手にぶちまけた上で、『今かけたのはガソリンだから、おとなしく引き上げないと、これで火だるまにしてあげる』と脅迫して撃退すれば良いのよ」

 そこまで聞いた天輝は、頭痛を堪えながら問い返した。


「お母さん……。今の話に、幾つか突っ込みを入れても良い?」

「あら、何か不審な点でもあった?」

「大有りよ! ガソリンなんて代物は、そんなプラスチック容器で気軽に持ち運びできない筈だよね!?」

「痴漢をするような馬鹿な人なんだから、それには気がつかないで怯えて逃げ出すんじゃない?」

「そもそも独特のガソリン臭がしないから、相手にバレバレだと思う!」

「そこら辺は、天輝の演技力の見せ所だと思うわ」

「演技力云々の問題じゃなくて! 身体に火を点けられるまで、相手がおとなしくしていると思うの? チャッカマンを奪われたら、それでおしまいだよね!?」

「本当にね……。私もそれは考えたのよ。だから最初に持たせるつもりだったのは、燃料用アルコールじゃなくて可燃性のスプレー缶だったのに」

 もの凄く無念そうに語られた内容を聞いて、天輝の顔が盛大に引き攣った。


「……ちょっと待って、お母さん。スプレー缶って、何?」

「ほら、缶の中身をプシューッと噴霧させながら、霧状のそれに火を近付けると点火して、即席の火炎放射機みたいになるのよね? それだったら相手も逃げられないから、効果的だと思うんだけど」

 それを聞いた天輝は、本気で母親を叱りつけた。


「そんな危険すぎる事は断固却下!! 相手もそうだけど、下手したら自分も火だるまだからね!? 誰がそんな物騒な事を、お母さんに教えたの!?」

「誰かに教わったわけじゃなくて、投稿用動画サイトで見たんだけど……。お父さんと悠真にも、凄く怒られたのよね。それで『燃料用アルコールなら許容範囲内だから、天輝に持たせても良い』と言われて妥協したの」

「……そういう事だったの」

 まだ幾分不服そうに訴える和枝とは裏腹に、天輝は安堵して胸を撫で下ろした。


(お父さんとお兄ちゃんが、既に怒ってくれていたわけね。当然の措置だわ。それにしてもお母さんって、普段はおっとりしているくせに、時々妙な行動力を発揮する時があるから困ったものだわ)

 ここであくまでも出された物の受け取りを拒否したら、和枝が他の物騒な物を次々試しかねないと判断した天輝は、何とか気持ちを切り替えて了承した。


「分かった。取り敢えず、これは痴漢撃退グッズとして貰っておくから」

「そうして頂戴。これで安心できたわ。これまで海晴が海外に行く時に色々渡してきたけど、帰国したらあの子にも同じ物を渡しておかないとね」

 そこで双子の妹の事を思い出した天輝は、その動向について尋ねる。


「そう言えば、海晴からまた連絡がきたの?」

「ええ。来月の六日に帰宅するそうよ。今度は一ヶ月位は家にいる予定らしいわ」

「それならゆっくりできそう。久しぶりに一緒に買い物や食事に行こうかな? どこかに遊びにも行きたいよね。休日にあるイベントとか、色々調べてみよう」

「そうね」

 それから天輝は和枝と一緒に、海晴が帰宅後の計画についてひとしきり話し込んでから自室に引き上げ、それから30分程して悠真が帰宅した。


「ただいま」

「お帰りなさい。例の“あれ”だけど、天輝に渡しておいたわ」

 挨拶に続いてさらりと報告された悠真は、意外そうな顔つきになりながら問い返した。


「天輝に怪しまれなかったのか?」

「勿論、相当変な顔をされたけど、何とか誤魔化したわ。ちょうど海晴から連絡を貰ったところだったから、すぐにあの子に関する話題に変えたしね」

「そうか……。ところで海晴は、いつ帰って来るって?」

「来月の六日よ」

「そうか……。また色々な意味で、騒々しくなりそうだな」

 微妙にうんざりした顔になった悠真を見て、和枝は苦笑しながら息子の分の夕食を温め始めた。

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