第40話 始まりも終わりもいつも突然に

 

 ほどなくして、ナマズが眠ってから一年がたった。それは相変わらず、城の先の庭で保護されている。呪文で二重にも三重にも縛られ、そこから全く動かない。雨の日も晴れの日も、雷の日も台風の日も、じっとただそこにいるだけだった。呪文で結界が張られているため、容易に人々は近づくことが出来ない。ただひたすらに人は待った。雨の日も晴れの日も、雷の日も台風の日も。ただひたすらにそれを見つめていた。彼が再び動き、ディーンが戻ってくるその日まで。


 その日の空は晴れていた。薄い透き通るような水色で、雲もぼんやりとした形を保っていた。


「いつか戻ってこれたなら、私はあなたに言いたいことがあるの」


 女は丘に立ち、誰に知られるともなくそう呟いた。


「私はあの時、一瞬だったけれど、あなたに呪文をかけ、かけられた。私は気づいていたの。ただもう一度、会うことが出来たなら、ちゃんと、」


ナマズはいつものごとく、何も言わない。ただ目をつむり、硬く唇を閉ざしている。

誰も何も言わない。だんだんと彼に語り掛ける人は少なくなる。

自身の痛みを忘れ、人々は平穏を取り戻そうとしていた。






 時は流れ続ける。記憶は失われ続ける。

それは不可逆で、どんなに抗おうとしても絶対に避けられないことだ。



ただ時は流れる。




 それは突然の事だった。何の前触れもなかった。特に晴れても雨でもない、誰の記憶にも残らないようなぱっとしない天気の日だった。みしみしとわずかな音を立て、ナマズは震え出した。やがてもごもごと小刻みに動き出し、ぶるぶると唇を震わせたかと思うと、口から一本の足が見えた。黒い革靴だ。その足の主もえいさほいさと一進一退しながら段々と姿を現す。ぎぎぎぎぎぎとおもっ苦しく唇が開けられ、がぱっとそれは全開になる。

「あーっつと閉じないで閉じないで」と彼は言う。

「なんか夢でも見ていた気分だなあ」よっこらしょ、と彼はナマズの唇を跨ぎ、えいやっと地面にジャンプする。彼は今いる場所の空気と自分の体の整合性を合わせるかのごとく、ごきごきとあらゆる関節を動かした。

「んっと」

 彼は目玉と首を上下左右に動かす。

「まあ動くねえ、久々だからなまっているな」

「……」ボス、と鈍い音がした。視線の先には、一人の女性が口を開けたまま、両手に抱えている本を地面に落としていた。

「な、な、な、」女性の眼鏡は斜めにずれている。声がうまく出ないらしい。

「レベーカ。なんだずいぶん綺麗になったじゃあないか。僕はこんななのに」彼は実にさっぱりと笑顔で言う。

「どれくらい経っているんだろう、ずいぶんと待たせてしまったみたいだけど」

 彼女はそのまま怒ったような顔をして全速力で走り、彼に抱き着いた。

「あのね、もう、あのねええええ、もううう」と彼女は怒っているのか泣いているのかわからないような声を出した。彼の首にかじりつき、子供のようにひたすらにえんえん泣いた。

「もう、もう、もう」彼女は何も言えなくなっていた。彼は一瞬何も考えられなかったが、やがてゆっくりと彼女に声をかけた。

「……ただいま」

「まったく、ほんとうよ。ずっと何をしていたのよ?」と彼女は泣きじゃくりながら聞いた。

「聞いていたんだ。みんなの声をね。それよりやけにお腹がすいているよ。よく僕の肉体は持っていたね。何か食べ物はないかな?」


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