第32話 暗闇の向こうへ

エネ・アヴァン・シュタルト大王の姿をディーンは捉えた。微かに霧がかかっていて見えづらいが、二つの角と長い縮れ毛はその姿は確かにエネ大王だ。 

「ちっ……早いっつの大王様」ダカーサが白衣のポケットから『箱』を取り出す。

「お先に行くよ、ディーン坊ちゃん。ティム、お前がエネ大王を説得しろ」ダカーサが国王のティムを呼び捨てにする。

「ああ……」ティムが音もなく移動する。

「お前はここで姫様……、お前の母様を足止めしていろ。効かんとはいっても動きを『鈍く』することくらいなら可能だろう」ダカーサは箱の中から銀色の液体を取り出し、それを一瞬でローラースケートに変え、コツコツとそれを二度人差し指で叩いた。瞬間、彼女は全速力でエネ大王の方に移動した。

「わ、わかったけど……僕が説得した方がいい気も・・…ってああ、お母様、もう少しの辛抱だから動かないで!!」


 ティムとダカーサはエネ大王の前にいた。ティムが一礼した後、話しかけた。地面に膝真づき、片膝をついたままゆっくりと話し始めた。ダカーサも彼より一歩下がってそれに倣う。

「何がお望みでしょうか、大王様」

「……」ちらとエネ大王は一瞬下を向いた。が、そのまま何も見なかったように歩き続けた。

「このまま地上にレメディオス様を置かせては死んでしまいます、彼女は常にエネのある水槽の中でないと……・・・」

「レメディオス、」エネ大王はゆっくりと発音した。地上で聞くそれは、幾千人もの声が重なっているような不思議な音がした。木々は揺れ、雲がよける。

「あ、ああああああああああああああああ」レメディオスの足にがっちりとしがみついているディーンは叫んだ。レメディオスは耳をピクリと動かし、そのまま何も言わずにふらふらと動き始めた。

「効いてない……っていうか・・……・だいぶ……押されているんですけど・・・・・・・・頑張れ・・・・頑張れ僕・・・・・・・・・はあっはあっ・・・・・・」彼は一瞬、そういえば寝てから全然エネルギーが回復していないな、と思った。が、すぐさまその思考を振り払い、必死で頭を回転させた。

(母さんが巨大化している……のはおそらく、胚の容量を大きくするため・・…地上で耐えうるように精いっぱいの大きさにしたということ……何か歌を歌ったのは母さんの方からだ・・…それで人々は眠ってしまった……しかし今母さんは……一瞬耳を動かした。ということは、エネ大王の声に反応している……? 母さんの声を聞いた人も皆眠ってしまったし……母さんとエネ大王の声には人の神経かホルモンを変化させる特殊な作用があるということか……ということは・・・・・・)

一か八かで、ディーンは自分の喉元に手を当て、声帯を変えた。

「止まれ、レメディオス」あのエネ大王の数千人が重なり合ったような独特な声は完全に真似することができなかったが、似たような声を出してみた。するとまたレメディオスは両耳をピクリと動かし、一瞬歩みを止めた。

「やった……やっぱり声が、

「レメディオス!!」エネ大王は叫んだ。

「え?」突然、レメディオスは徐々に速度を上げていき、小走りした。

「ちょ、ちょっとちょっとちょっと、ちょっと!!!!母さん!!!!呼吸が乱れるって!!!!」ディーンは必死でレメディオスの足にしがみつく。

「ああああああああああああああああ」ザザザザザザザザ、と砂ぼこりが舞い、たちまち辺りは見えなくなった。ディーンは思わず両目をふさぐ。眼鏡越しにも舞った砂が目に飛び込んでくる。

「来い、我が娘よ、ともに帰ろう、『もと居た場所』へ」

「え?」

「ここはそもそも我々のいるべき場所ではない……」エネ大王が呟いた。ほぼ同時にティムがエネ大王に向かって解除呪文をかけた、が、遅かった。

「え?」ディーンはその瞬間、太陽を真正面から見た。木々も城も小さく、逆さになっている。わけがわからなかった。彼は地上から十メートル以上の高さのところへ放り投げられていたのだ。レメディオスは、まるで自分の足に蝶が止まったかのように、息子を軽々と放り投げたのだ。ディーンがようやくことを理解した際、既に彼は落下していた。

「え? ・・・・・・・・・・・・・……ううあああああああああああああああああああああああああああああああ」耳が痛い。喉が焼ける。頭には血が上る。身体のすべての機能があべこべで、見える世界もすべてが反転した。その間、レメディオスはダカーサもティムもまるで存在していないかのようにただまっすぐにエネ大王の胸へ飛び込もうとした。が、やはり彼女の耳は一瞬動いた。

「違う」彼女はぽつりとつぶやいた。次の瞬間、誰もが見えないくらいの素早さで振り返って手を伸ばし、そのまま手のひらの上にディーンをのせた。

「え?」ディーンはそのままレメディオスの右手にしがみつき、レメディオスはエネの胸に飛び込んだ。エネは愛しい娘を右手で抱きかかえると、片膝をついて大きく深呼吸をし、大きく拳を地面に振りかざした。

 地面が割れた。雲が出てきて、空がどんどんと灰色になる。空はカーゲルの『フィナーレ』を演奏し始めた。




カヌオウェ  ネイオカ ガハボス エフ

シンショウ ショウエン ロウナ コウジン


カヌオウェ  ネイオカ ガハボス エフ

シンショウ ショウエン ロウナ コウジン


ミアオウェ ポスエフ センチェン ペクスジャ

キタワナ アガミ オーエン ルフイン


カヌオウェ  ネイオカ ガハボス エフ

シンショウ ショウエン ロウナ コウジン




「我々は元に戻る。元居た世界に・・……


も と い た せ か い に …  ・ ・ ・」


 地面に亀裂が入り、活きの良い葉の枝のようにどんどんと分裂していく。ティムは真っ先に振り返って城が動かないように必死に地面に固定させた。

「ダカーサ!! 城の中には500人の人間がいる!! 早く全員の目を開けさせろ!!」

 ディーンは真っ暗闇の中で父親の声を聞いた。自分の頭の遥か上から。

 どうしてだ? ここはどこだ? 彼は真っ暗闇の中に落ちていく。

 音がしない。何もしない。試しに瞬きをする。何も見えない。声を上げようとする。出ない。いや、出ているのか?何も聞こえない。感触は…・・・  ある。抱かれている。何者かに抱かれている。おそらく・・・・・・・・母親だ。誰か・・…誰か・・…動けない・・…僕は動けない…・・・・・・ がっちりと固定されて抱かれている。僕は動けない。なんだ? そもそも手足の感覚が無いぞ? ここはどこだ?ここはどこなんだ?誰か返事をしてくれ……



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