第25話 雨の流れる日は

 気づいた時には既にディーンは城の自室の中にいた。センブリも一緒だった。二人は床に座り込んだ大勢のまま数秒間動かなかった。先に立ち上がったのはセンブリだった。


「……シリウス様から電報が届いているそうです」

「君はシリウスのことを知っているのかい?」

「ティム様から何度かお聞かせいただいたことがあります。かなり優秀な研究者だったと聞きますが」

「そう。父さんとはよく話す?」

「残念ながら仕事のことばかり話しておられます」とセンブリは淡々と言った。

「そうだよね」

「電報を読み上げますか? ただ今ワールテローからテレパシー電報を受信しましたが」

「あのネズミはどこにいるんだい?」

「おそらく馬車の支度をしていると思いますが」

「エネ大王のところに行こう、支度でき次第行くよ。ワールテローには直接会いたい」ディーンは徐ろに立ち上がった。

「僕にはやるべきことがある。国のためにも、僕を愛してくれた者のためにも」


 ディーンとセンブリが外に出ると、雨が降っていた。空はどんよりとした灰色で、いつになく暗かった。雨はしとしとと絶え間なく降り続いていた。

「この国の者が死者の国に旅立つときは虹が出ると聞いたことがあります」唐突にセンブリが口を開いた。彼が自ら仕事以外の世間話を始めることは稀だった。

「古い言い伝えじゃないか?」

「ええ。おそらくそうでしょう。私は一度だけ虹を城から見たことがあります」彼はそこから一気に、しかし訥々と語り始めた。馬車は既に城の前に用意されてあり、二人は乗り込んだ。ワールテローが馬の上に乗り手綱を持っていた。酷く悲しげに頭を下げた。ディーンも頭を下げた。

「もう十年以上も前の話だったと思います」

 馬車は動き出した。道にはいくつもの水たまりができていて、馬が走るたびにびちゃびちゃと煩い音がした。センブリはいつになく語りたいようだった。


「昼の14時くらいで、人々が最も活発になる時間でした。私とティム様は何かしらの会議の帰りで、二人きりで廊下を歩いていました。私たちはこの十数年間、いつもめまぐるしく城の中を行き来していました。季節も時間も、私たちには関係ありませんでした。今が夏だろうと冬だろうと、私は常に軍服に袖に通し、カフスボタンを留め、いかついブーツをかき鳴らしていたのです。私たちはずっと同じ道を行ったり来たりしていました。ずっとこの城の中を歩き回ってきました。どんな事態が起きても、彼は表情一つ変えませんでした。彼は仕事以外の話を殆どしません。だから何十年と経っても、不思議とあの時のことを私は昨日のように覚えています。

あの二階の廊下の大きな窓々から、私と彼は大きく美しい立派な虹を見ました。彼の頬は虹に照らされて光り輝いていましたが、今となってはもう、私の記憶が肥大した妄想かもしれません。記憶というものは不思議なもので、知っての通り、どんなに正確に覚えていたいと願っても、思い出すたびに曖昧になり、両手で掬った砂のごとく、どこかへ流れてしまうものです。しかしその残った一部が、我々を生かしているもの事実です」


 センブリはそこまで一気に喋った。ディーンは注意深く彼の話を聞いていた。


「私たちは会議の後、無言で、いつものごとく速足で自室に向かっておりました。各大臣が集まる、気の重い会議だったような気がします。今となってはもう何を話したか覚えてはいません。私はいつも以上に気を張っておりました。万事が計画通りに事が運ぶよう、細心の注意を払って演技をするマジシャンのような気分でした。私は会議の緊張から解放され、幾分疲れていました。彼はいつも通り表情を変えずに歩いていました。そんな折に見た虹は格別でした。一仕事終えたあとのそれは、私たちをねぎらっているようにも思えました。彼が仕事以外のことを口にしたので、私は少々戸惑いました。私は彼の言葉を一言一句覚えております。

『知っているかい。この世界では、誰かが死者の国へ旅立った時、虹がかかるんだ。私はかつてそのことを、父とも言うべき人から教わった』と」

「父?」ディーンはそこで初めてセンブリに口を挟んだ。

「僕の父はフラスコから生まれたんじゃないのか?!」

「キッシンジャー様のことを指しているのかもしれません」とセンブリは優しく言った。

「キッシンジャーが、ティム様フラスコの外へ導いてくれたのですから」

「シリウスとも知り合いだったんだよね?」

「ええ。ティム様はあまり他の人と比べて外見は若いですが50を超えているのです。私が出会った時から彼は若く、美しく、輝いていますので、誰も信じませんが」

「そうだよなあ」ディーンは正直に言って、ティムは20代後半くらいに見えた。

「黒髪の旦那……いえ、シリウス様からの電報は受け取りましたかね?」ワールテローがいつになく低い声で、顔をまっすぐ正面に向けたまま口を挟んだ。

「正確な文面は知らないな」とディーンは言った。


「ジャン ジガイシタ ツヤ アシタ」


 ばしゃばしゃと雨音が響く中でワールテローが力なく答えた。沈黙が訪れた。雨と水たまりを踏む音だけがむなしく響いた。誰も何も言わなかった。


 沈黙を破ったのはワールテローだった。

「坊ちゃん、いえね、あっしは正真正銘頭のてっぺんから足のつま先までティム様に仕えていますがね、坊ちゃん、あっしは度々、坊ちゃんを御守する純朴な少年とも会っていたんですよ。坊ちゃんは知らないと思いますがね。燃えるような黒い瞳の子だったな。熱心に、それでいて楽し気に毎週真っ先にあっしのところへ報告に来るんす。それをあっしはティム様に報告してたんです。正味な話。あの子は純朴で、あっしなんかより遥かに頭もよかった。毎週いろんな話をしてくれましたよ。光の道を歩んでいる人間がいるとすればあんな子なんだろう、って勝手に思っていましたよ。だってあっしなんかはそう、ドブネズミじゃないですか。日の光なんか似合いません。暗くじめじめしたところで、ゲスイ噂話なんかを聞きかじって、時には脅したりして情報を集めているのが性に合っているんす。あっしの周りにもそんな連中ばかりいますが、あの子は違ったね。あの子は親にも周りの友人たちにも愛されていた。信頼されていた。成績だってすごくよかった。あの子が語る日常はあっしが決して手に入れられないようなものばかりだったけど、不思議と憎いとは思えませんでしたよ、正味な話。

 汚いあっしのことを、あの子は何のフィルターも通さず、ただ純粋に一人の『人間として』扱って……、いえね、湿っぽくなりましたね。久々の雨はやっぱりいけねえや」

「ジャンは僕のせいで自殺した」とディーンは言った。

「僕は何も見ていなかった。彼の気持ちにこれっぽっちも気づいていなかった。ジャンは……」

「坊ちゃん、それは違うと思いますぜ。坊ちゃん、自分を責めちゃいけませんや。いつかわかるときが来るでしょうね。でもその前に、ちゃんと説明してくれる人がいるみたいだ」

 湖は雨で荒れていた。銀色の波がざぶざぶと嵐のごとく揺れている。その前に立っていたのが他でもない、一羽の鳩。

 僕の義父、シリウスだった。彼はディーンの顔を見るなり、泣きそうな顔で笑った。

「ディーン、今日くらい、私は人間に戻りたい」

 

 鳩にも表情はある。ディーンはその時初めて知った。雨は降り続いていた。

「この湖のラヴを使えばできるんじゃないかな」

「できるさ。お前自身にもラヴがあるはずだ。俺のラヴよりかはあるだろう。ちょっと力を貸してほしい。俺のこの姿は、ティムがかけた強力な変身魔法なんだ。それも『不可逆呪文』を使いやがった。強力な解除呪文をしなければならないんだが……」

「やってみようか」雨は、しとしとと降り続いていた。

 ディーンは目を瞑り鳩に手を当てた。

「実はさ、ジャンの箱は僕が持っているんだ。使ってもいいかな」

「好きにしろ」

 ディーンはジャンの記憶の箱を呪文で開け、中にある銀色の液体を取り出し、そのまま呪文で鳩に飲ませた。水が宙を舞い、鳩は口を自動的に開けそれを飲み込んだ。

 バキバキと骨が作られるような嫌な音がした。初めは足元ができた。その次に凹んだ腹と薄くも筋肉のしっかりした胸と細い肩、四十代とは思えない若さの黒髪黒目の男が現れた。

「お前とこの姿で会うときは、もっと違う形で会いたかった」

「義父さん」シリウスは傘もささず、薄い上着を羽織っていただけだった。彼は雨なぞ何も気にしていないようだった。受け止めることもせず、ただそれを頭から流していた。自慢の黒髪は濡れに濡れていた。

「ディーン、ディーン……大きくなった……」シリウスは小声でつぶやいた。ディーンはシリウスに腕を回した。彼も雨など気にしていなかった。

「ディーン……ずっと心配だった……ずっと守ってやれなかった……せめて……お前だけは……」

 言葉はそこで途切れた。

 雨が降り続いていた。


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