第4話 愛と夢の狭間

「大丈夫?」


 どこからかレベーカの声が聞こえた。彼が目を開けると真っ先に飛び込んできたのは見たこともない天井だった。彼は辺りを見回した。彼はピンクの枕と布団があるベッドの上にいた。そこはレベーカの家だった。


「あなた、お酒を飲んでそのまま寝てしまったのよ。お店の人とタクシーの運転手にここまで担いでもらったの」ベッドにはレベーカが座っていた。彼は飛び起きた。


「レベーカ」彼はいつになく大きな声を出した。

「レストランは?」

「そんなのキャンセルよ。どうだっていいじゃない」彼女は何でもないように答えた。

「それより今は寝てなさいよ」

「ここで寝るわけにはいかない」彼は起き上がろうとしたが、レベーカは彼の腕をつかんだ。

「ここは君のベッドじゃないか」

「今は安静にしてなきゃダメ」泣く子供をなだめるような言い方だった。

「ちゃんと布団に入って眠って」

「そんなことできない」

「私はどこででも寝られるから」

「僕はソファに行くよ」

「ソファなんてないわよ」


 それは本当だった。レベーカらは一人暮らしをしていて、ワンルームのマンションに住んでいた。とてもソファなど置ける余裕はなかった。


「貴方が良ければ」と彼女は言った。彼女は眼鏡をはずした。

「一緒に寝るわ」沈黙が訪れた。彼はどうすればいいのかわからなかった。ここにはキッシンジャーもジャンもいなかった。自分がどうしたいかで決めるしかなかった。

「君が良ければ」と彼は震える声で言った。

「君さえよければそれに従うよ」


 レベーカは彼を布団の中に誘導し、自分もベッドの中に入った。彼女は電気を消した。暗闇の中で彼女の足が彼の足に当たった。眠れるわけがなかった。彼女の手が彼の腹部に時折当たった。彼女の髪の毛も顔に当たった。レベーカの息遣いが聞こえた。ディーンはベッドに入ってからの方がリラックスできなった。心臓がどくどく鼓動し、息がしづらくなった。


「起きている?」彼は暗闇の中で囁いた。

「うん……」眠そうなレベーカの声が聞こえた。少しだけ息が顔に当った。

「なんだか今日は息がしづらいみたいだ」

「なぜ?」

「君がいるから」

「私のせい?」暗闇で女の声が震えている。

「そうじゃない」男はいつになく力強く主張する。

「君に触れたいと思う」

「そうすれば?」


 かくして、この日初めて彼は女を知った。


 彼の生活は一変した。彼はレベーカに会うまで情念とは何かを知り得なかった。レベーカが彼にもたらしたものは計り知れなかった。彼女は彼に人と触れ合う喜びを肌で体験させてくれた。ジャンと過ごすときとはまた違う何かすごく安らぐ感情を与えてくれた。二人は度々逢瀬を重ねた。



 転機が訪れたのは彼が二十になる直前だった。彼はい来るか論文を出し、審査が通ったため、わずかながらの給与が発生することとなった。少額だったがそれは彼が自分で得た初めてのお金だった。彼は研究者としての第一歩を歩み始めたところだった。

 彼はそのことをある昼下がりの午後、大学の芝生の上で彼女に伝えた。

「おめでとう」と彼女は言った。

「私より先に審査に通るなんて生意気ね」彼女は笑った。

「それで相談があるんだ」

「何?」彼女は笑って言った。

「手を出して」彼はレベーカの左手を掴み、薬指にシロツメクサで編んだ指輪を通した。

「結婚して欲しい」

「ええ?」レベーカは彼のこの急なプロポーズに驚きを隠せなかった。

「今すぐではないでしょう?」彼はポケットから銀色のシンプルな指輪を取り出した。石はまだ嵌っていない。それを彼女の薬指にはめる。二つの指輪が一つの指に通される。

「えっ、これ……」彼女は息をのんだ。

「もちろんすぐにでなくて構わない」彼はレベーカの目をしっかりと見た。

「二人きりになれる日がいつか来たら、この指輪に石をはめよう。君の好きな石を選んでいい」

「そんな……」彼女の目には涙が浮かんでいた。

「私は今人類の中で一番幸せな人間ね」

「いや、君は二番目だ」ディーンは彼女を抱きしめた。



 彼は早速カバンの中から本、キッシンジャーを取り出し事の顛末を報告した。

「左様か」

「ええ、彼女は僕との結婚を認めてくれました」

「それは祝わなければ。叔母には報告したか?」

「いえ、今は未だ大学なので帰ってから」

「すぐにするがよい」彼は淡々と答えた。

「しかしその前にお前に一つ報告がある。お前はじき二十になる。王位継承権が与えられる年だ。お前はオータス家の養子だが、様々な奴がお前を狙うだろう。それを忘れるな」

「僕を狙うやつがいるのですか?」

「左様。今までは儂が側にいたから連中も手を出せなかったのだ」

「キッシンジャー様が守ってくださっていたのですか?」

「左様。儂は強力な保護呪文を使っておる。まあ、これは儂の力だけではないのだけれどな。だから連中もうかつに手を出せなかったのだ。しかしこれからはどんな手を使ってでも殺してくる奴が現れるだろう。加えて、この保護呪文をかけたのはもう約二十年も真になる。効力が弱まっても何ら不思議ではない」

「そうだったんですね……今までありがとうございました、僕は何も知らなくて……」

「それは少年がまだ幼かったから言わなかっただけじゃ。まあ、言わなくても儂が守ったしな」

「キッシンジャー様」

「何だ」

「シドも……狙われるんですよね?」

「もちろんだ。儂には十人もの息子がおるからの。かつて王だった儂がお前に肩入れしていると知れば、兄弟たちは黙っておかぬだろうが、順当にいけば養子のお前よりかは彼は危険なのは間違いない」

「僕は強くなりました」


 彼はシャツを脱いで、キッシンジャーに見えるように立った。細身だが、筋肉はついている。それは日ごろの走りこみと剣術の賜物だった。


「僕は論文だって書きました。世界の成り立ちを知りたかったから。でもこれだけじゃ、みんなを救えない。僕は改めてどうするべきなのでしょうか?」

「呪文を覚えるのじゃ」

「呪文ですか?」

「左様」

「錬金術ですか?」

「もちろん錬金術は必須だ。しかし化学の心得があるお前にとってはたやすいことだろう。儂の325頁からの自伝は暗号になっておる。実はそこから、全て呪文の記録なのだ」

「わあ」ディーンは思わず声を上げた。

「全然気づきませんでした」

「お前ならとっくに気づいていると思ったが」

「すみません、貴方を読んだのは小学生の頃だったので」

「左様か、とにかくそれを読め。物理法則と化学法則については儂から言うことはないだろう。直接呪文を覚えるがよい」

「やってみせます」


 かくして特訓の日々が始まった。

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