ディーン・オータスとラヴの秘密

阿部 梅吉

第1話 始まりのクリスマス

 

 これはただの記録書である。

 その記録はとある歴史を作ってきた一人の人間の魂が定着したもので、このような文章から始まる。


 『歴史とは、誰かが生きた証である。しかし誰もが、歴史のすべてを把握することなぞできない。しかし、確実に今この瞬間が、過去のすべてが未来へと繋がっている。不要な物は何もない。

 我々はあらゆるものを支配しながら、支配されながら、矛盾する世界をすべて抱え込みながらとりもなおさず進んでいかねばならない。何かわかったと思ったら、何かつかんだと思ったら、すぐにまた新しい世界が出てくる。わからないことをひとつ解明すれば、またさらにわからないことが十個出てくる。終わりなき旅と戦い。しかしそれは悲観すべきことではない。すでに誰かが歩んだ道をなぞりながら、さらに新しい道を作らねばならないのだ。それが今を生きるということなのだから。』





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 ブライアン・オータスの家に一人の孤児がやってきたのはクリスマスも近いある冬の夜更けだった。ブライアンは十人いる兄弟のうちの三男坊で、次男坊はこの国の総理大臣だった。彼自身も長年林業に携わり、農林水産省の副大臣の役職に就いていた。働きぶりはまじめだが、そのまじめさを無意識にどこまでも他人に強要しようとする性格で、周りの人は度々彼に辟易させられていた。


 しかし彼自身はどこ吹く風、権利の椅子を使って他人をコマのように使っていた。


 そんな彼のもとにいきなり孤児がやってきたのだから、彼は第一にその状況を面倒くさい厄介事だと感じた。ブライアン・オータスの頭の中は大事な国益である林業で生産性を上げること、そのためにはどんな人員を使ってでも決められた目標を達成することだけにあり、彼の頭の中にあるのは数字のみであった。


 彼には妻のオトメイアと息子のシドがいたが、家のことはもっぱらオトメイアに任せており、息子が学校で何年何組に通っているのかさえも知らなった。そんなわけでこの厄介な孤児をまずほかの兄弟たちに押し付けようとしたが、それも無理な話だった。


 と言うのも、この孤児はほかの兄弟たちに全て拒否され、最後の砦としてこのブライアン・オータスの前に現れたのであった。ある者は金銭的な事情で、ある者は親の介護で、ある者は病気を理由に断った。また年中旅をしていて音信不通になっている者もいたし、何より一番上の長男は昨年死亡していた。次男のところはさすがに公務があり、また既に養子が一人いたため、大変だろうからということで拒否されていた。


 ブライアン・オータスには息子がいたが、彼はもう小学生になることであったし、金銭的にも余裕があった。妻のオトメイアは専業主婦で、昼間は比較的時間的な余裕もできていた。ブライアン・オータスには断るだけの決定的な理由が欠如していた。かといって彼には自分の血が半分も通っていない孤児を愛し育てるだけの情熱を持ち合わせていなかった。断りたいのはやまやまだが、外的な要因が彼を窮地に立たせていた。


 その窮地を救ったのは妻のオトメイアだった。彼女の生きがいは家の平穏を保つこと、それと息子のシドが一人前に育ってくれることだけに終始しており、シドがちょうど小学生に入る頃に暇ができてしまうことが彼女の懸念材料だった。


 彼女の唯一の生きがいは子育てと家事、それに夫の補助であり、趣味は一切持ちえていなかった。しいて言えば、息子と夫が喜んでくれるような手料理を作ることが彼女の一種の趣味と言えた。更に元来お節介焼きで人情深い性格が災いし、彼女はこの哀れな孤児を引き取ることを決意した。それは孤児への慈悲の気持ちもあったが、幾分かは彼女自身が救われたい気分になっていたのだった。


 ブライアン・オータスは面倒ごとが片付いた安堵がまず先に立ち、これから起こるであろう様々なごたごたを考えることはしなかった。何より、この孤児が家に来たことで起こった厄介ごとは元よりすべて妻に任せるつもりであったので、自分の仕事量が減った嬉しさが先に立ったのだ。



 そんなわけで哀れな孤児、ディーン少年はブライアン・オータス家の養子となった。



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 少年が持っていたものは一通の手紙といくつかの金貨(おそらくそれが全財産であったのだろう)、それと古びたハードカバーの本だけだった。


 オトメイアはおよそ小学生には満たないであろうその少年を家に招き入れ、温かい料理を振る舞った。押入れに使っていた部屋を片付けて少年のための部屋も作った。彼女は少年に尋ねた。


「貴方の名前は?」


「ディーン」


彼は未だ声変わりのしていない高い声でぼそりとつぶやいた。


「まあ」


少年は金髪で青めでいかにも痩せていて女の子らしいが、名前まで女らしいとは思ってもいなかった。


「本当にディーンって言うの?」


少年はこくんとうなずいた。


「それなら仕方ないわ」


オトメイアは彼をディーンと呼ぶことにしたが、人前では愛をこめて「デッド」と呼ぶことにした。いつしか彼は同級の子たちには「ダブルディー」と呼ばれるようになった。

 少年の正式な誕生日と年齢はわからなかったが、実の息子のシドよりは幼い感じがしたので、彼より一年遅れて学校に通わせることにした。それについてブライアン・オータスは何も言及しなかった。彼は元より家庭のことにもディーンのことにも興味がなかった。彼はディーンをデッドと呼ぶことは生涯で一度もなかった。



 学校に入る前、オトメイアはディーンに簡単な読み書きを教えることにした。ディーンは普段から口数が少なく、ちゃんと他人と意思疎通ができるのか、学校の勉強について行けるのか、オトメイアはひどく心配した。まず彼女は簡単な絵本を取り出し、それをディーンに読み聞かせた。ディーンは口数こそ少なかったものの、文字はきちんと認識できるようで、一度本を与えて以来、家にある本という本を片っ端から読むようになった。


 やがて彼は絵本や小説に飽き足らず、雑誌や調味料の原材料や包装紙に使われている新聞紙など、ありとあらゆる文字を欲した。それは病的と言ってもいいほどで、彼はそこに文字さえあれば熱心に読みふけった。それが図鑑であれ電話帳であれ、とにかく文字があればむさぼるように読んだ。


 その集中力やすさまじいものがあったが、いったん自分の世界に入ると周りが見えなくなるようで、オトメイアが話しかけてもディーンは答えないことが多かった。ひどい時には丸一日何も食べずに本を読みふけるので、さすがにオトメイアは怒って彼から本を取り上げた。そこでやっと彼は声を発して泣いた。その泣き方がまるで一瞬にしてダムが崩壊したかのごとく激しかったため、オトメイアは調子が狂ってしまった。


 逆に彼女はディーンを宥め、赤ん坊に乳をあげるかの如く彼に本を手渡した。その時彼が読んでいたのは『純粋理性批判』であり、それは本棚の奥底に埃をかぶって日の目を見ないまま鎮座していた代物だった。当然年端の行かないディーンにその意味が分かるはずもなかったが、彼はそれが文字であるならば進んで読んだ。


 この彼の読書家ぶりにはブライアンもオトメイアも舌を巻いた。ブライアンは大学時代に林業を学んだが、文学などはからっきしだった。オトメイアも物語こそ好んで読むものの、彼女は大学を出ておらず、基本的なこの世の科学知識に乏しかった。まして哲学などは習ったことが無い。二人の大人はこの小さな本読み虫に圧倒され、自分の知らない世界を子供が知っていく感動と若干の恐ろしさを覚えた。



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 実の息子のシドはディーンと対極的であった。彼は本を毛嫌いし、ディーンと違って良く他人と関わった。ただしこの場合、他人と良い関係を持った、とは言い難かった。

 体も大きく喧嘩も強かった彼は、しばしば他人を従わせた。

 その点では帝王学を学ばずして人を動かす力があるとも言えたが、実にその関係は暴力や暴言で成り立つものだった。


 彼はたびたび他人を意味もなく攻撃し、使い走りなどさせて笑うことがあった。勿論その悪行は同級の者ならず、学校の先生にまで届いていた。何か問題が起こるたび、学校側からしかるべき措置が取られた。オトメイアはたびたび先生や他の保護者に頭を下げなければならなった。


 しかし家に帰ればまた彼女もどこ吹く風、彼女は教育としつけを存分に甘やかすことだと勘違いしていた。学校ではへこへこと頭を下げていた彼女も、ひとたび家に帰れば息子を自愛の目で見、内と外で本音と建て前を使い分けていることを、幼いシドは理解していた。多少悪事を働いてもさほど咎められない環境もあって、彼は次第にスポイルされていった。


 シドはディーンに対しても高慢な態度を取った。もとより何を言われても言い返さないディーンは、シドの格好の標的となった。

 たびたびシドはディーンから書物を取り上げ泣かせたし、瘦せっぽっちで力のないディーンをこき使った。

 しかしディーンもディーンでどこ吹く風、彼は元より他人に興味などなかった。何を言われても特に何も感じなかったし、彼にとって重要なのはそこに書物があるかどうかだけであった。


 シドは度々ディーンから書物を取り上げたが、シドにとってそれは逆に不利益を被るものだった。初めは毎日毎時間本など読んでいるので興味本位で取り上げていたものの、ディーンの本への執着は凄まじいものがあった。彼から本を取り上げた瞬間、シドは彼に髪を引っ張られ、腕には歯型の傷を負った。

 彼はディーンが何もしゃべらないために反撃などしてこないと高をくくっていたが、実際、彼にはシドにはない執着心と諦めない心があった。

 そんなわけでシドはすっかり彼を好奇心からいじめることを諦めてしまった。


 とはいえシドがディーンに一目置いたかと言えばそうではなく、ただ単純にディーンに手を出すと厄介なことになるということを学んだだけで、シドはディーンに対して家族としての情を持ち合わせることはなかった。



 すっかり大人かお前顔負けの本読みになったディーン少年であったが、彼が唯一、オータス家に来るときに持参していた本を読むことはしなかった。彼はその本をいつも自分の近くに置いていたが、決してそれを開くということはなかった。



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 ある晴れた日の午後、オトメイアが掃除をし、彼が相変わらず読書の世界に浸りきっているまさにその時、ふと彼女は彼の横にある本をどけた。彼女はただその本の置かれた場所を掃除したかっただけなのだ。

 しかしディーンはその行為にひどくびっくりし、本を取り上げようとした。


瞬間、どこからか


「何をする」


と声が聞こえた。本はまだ彼女の手の中にあり、もう一方の手で掃除機をかけていた。


「下ろせ」


声はどこからか再度聞こえた。それはしわがれた老人の声だった。ディーンを見ると、ひどくあわあわした顔でオトメイアから本を取り上げようとしていた。


「放せ」


本から声がした。オトメイアが本の一ページ目をめくると、そこにはたった二文字、「放せ」と書いてあった。彼女は驚き、気味悪がってその本を一瞬で手放した。ディーンがそれをうまくキャッチした。


「ふん、俺を邪魔者扱いしおって」


と本は言った。


オトメイアはすっかり腰を抜かしてしまった。ディーンはメモ帳を取り出し、さらさらとペンを動かした。


「これは僕のおじいさんです」


とそこには書かれていた。彼はすっかり文字をマスターしていた。


「おじいさん?」


オトメイアは半信半疑だったが、かつて夫から突拍子もない話を聞いたことがあった。


 夫の一番上の兄はすでに死んでしまったが、先代の首相であった。今は夫の兄であり先代の弟である次男坊がその役を引き継いでいる。夫の家系では代々首相になったものは脳を取り出され、研究室などで保管され、後々の政治にたまに口を出すことができるようになるシステムがあると聞いたことがあった。


 それが今まさに、目のまで起こっていることなのだろう。その本から出る声は聞いたことがあった。かつての先代の直系の祖父であり先々先代首相である「キッシンジャー・オータス」であった。


「キッシンジャー様ですか?」


腰を抜かしたままオトメイアは聞いた。


「左様」


本は答えた。


ディーン少年はバツが悪そうに下を向いていた。彼はまたメモ帳に何か書いた。


「おじいちゃんには優しくしてあげて」


ディーン少年はこの時分、文字の魅力にすっかり嵌っていたせいか、本来喋ることができたのだが、文字を書きたい衝動に駆られており、何かを伝えたいときは必ずペンとメモ帳を用意した。


 オトメイアはディーン少年のこの奇怪な行動と奇妙な本を恐れ、彼を普通ではないと判断した。


 何が始まろうとしているのか、オトメイアにはわからなかった。ただ彼女の周りで、彼女自身には知覚しえない物事が起きていた。



 季節は回り、またクリスマスがやってきた。雪が降り、街にはクリスマスツリーが飾られた。

 しかし街の賑やかさとは裏腹に、彼女は途方に暮れていた。



「ディーン、あなたはいったい何者なの?」

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