第15話 悪い子への躾

 警報が鳴った。高く、耳をつんざく、いやに響く音だ。どんなに眠りの深い者でも、その音を聞けば忽ち起きてしまう。おかげでその建物のほとんどすべての人間が文句を垂れながら起きる羽目になった。何人かの職員は、シャワー室のある地下に武器を持って近づいていた。サメはあらゆる壁も物も破壊しながら、だんだんとシャワー室から離れていた。シャワー室の水は溢れ、既に廊下も水浸しになっていた。 

 まだ地上にいる人間たちは、地下で何が起こっているのかわかっていなかった。絶えず警報は鳴っていた。不快の対象でしかなかったこの音が、人々の恐怖の対象へと変わっていくのに、さほど時間はかからなかった。大会議室は誰もが口々に喋り始めていた。グロリオサを罵っていた連中も、もう大声を出すことは無かった。情報が無い中では、嫌悪よりも不安の方が勝つ。大会議室にいる者は、誰もここにグロリオサがいないことなど気づかない。今何が起こっているのか、自分たちは助かるのかどうか。それしか頭に無いのだ。

 事態は好転しなかった。遂に、サメは地下にいた一人の人間を轢き殺した。見回りに出ていた職員の一人だった。それが伝わると、施設の人間に一層緊張感が高まった。次は我が身だ。サメはどんどんと建物の中心に進んでいた。階段で待機していた何人かの職員がサメに殺された。食われた奴もいれば、下敷きになった奴もいる。結果は同じだ。サメはゆっくりとだが、確実に地上に出ようとしていた。

 ジャンはその時、とある大きな個室の大きなベッドの上で寝ていた。床の揺れ方と遠くから聞こえる地響きのような鳴き声で、彼は事態をいち早く察知した。彼の推測が正しければ、グロリオサが姿を変えたのは明らかだった。間違いない。それならば、と彼は考える。僕にできることは一つしかない。ベッドから飛び起きた。



 ベッドから飛び起きた。グロリオサの泣き声が聞こえたからだ。普段と違う鳴き声だが僕にはわかる。職員が返してくれた僕の鞄の中にはいくつかの魚が入っていたので、とりあえずそれを全部持って行く。服装は寝間着だが、動きやすいので問題は無いだろう。靴は職員が支給してくれた歩きづらいものではなく、僕が今まで履いていた物を足に通した。少し変な格好だが、一々文句を言っている暇は無い。そうこうしているうちに、人間の悲鳴が聞こえた。男の声も女の声も混じり合っていた。僕は考える暇も無く部屋を出た。部屋を出た瞬間に一人の職員が僕の部屋の前にいた。

「お目覚めでしたか」とその職員は言った。見たことのない顔だ。坊主で目が細い。

「ああ、悪いが急いでいる」

「避難してください」僕は無視して走った。

「殿下」

後ろから声が聞こえたが、無視して魚に乗って移動した。コツを掴むまでが難しいが、良い魚を使えば案外形になる。僕の部屋は二階にあった。悲鳴は下の方から聞こえて来たので、僕はそのまま階段の手すりの上をスケートでも滑るように下って行った。悲鳴は徐々に大きくなってくる。一人の人間が僕の目の前に現れた。

「どいてっ」

僕は叫んだ。ジャンプし、彼の頭の上を飛び越え、もう一度階段の手すりの上に着地した。

「逃げて、はやく」僕はその場にいる人間に命令した。

「全員逃げろ、僕が対峙する」あらん限りの声で僕は叫んだ。しかしそれでも、職員の多くは逃げなかった。逃げる者もいたが、恐怖や怪我で逃げられない者もいた。或いは、殉職しようとする者も。

「とにかく逃げろ、一人残らず」僕は階段を下りながら叫んだ。

「命令だ」

 ついに、サメの牙が僕の眼下に現れた。サメは職員たちをなぎ倒し、また、食い殺してもいた。

前線には、頬に傷のある男が立っていた。彼は武器をサメに向けていた。鉄砲だ。

「一度こいつの頭上か目を狙います」と彼も叫んだ。彼は僕がここに来ることを初めから予期していたみたいだ。

「いったん止めてくれ」僕は叫んだが、サメはどんどん地上に侵入してきていた。頬に傷のある男は引き金を引いた。それがわずかにサメの頭上に当たった。頭から血が出た。サメは余計に暴れた。僕は男の隣に並んだ。

「いったん下がって下さい、サポートをお願いします。他の人間がもうこれ以上サメに近づかないよう呼びかけて」

「何を

「早く!!!!!!!!」僕は叫んだ。

「大会議室とここを繋げないように、封鎖して」彼は素早く頷き、ここから離れた。逃げられるだけの体力がある職員は、おおかたこの場から消えた。地下一階と一階を繋ぐ踊り場。本来ならばここは暗く、薄暗いランプのみが点いている予定だったのだろう、今はとても明るい。蝋燭も電気も付いている。

 微かに遠くから音楽が聞こえて来た。何かとても美しい音色だ。とても気分が高揚する。讃美歌みたいな音だ。僕はその音に耳を澄ませ、ゆっくりと深呼吸した。指が乾いている。これじゃあいけない。人差し指を舌で舐める。でも不思議だな、美しすぎて笑ってしまうよ。


「君はまったく、悪い子だ」

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