第10話 黒服の男

 拷問のようだ。腹にずしんとくる。今にも鼓膜が破れそうだ。こんなにも空は大声で歌うことが出来たのか。

 黒服たちは何やら不思議な言葉を唱えている。聞いたことのない言語だ。おそらくマントラか何かであろう。


カヌオウェ  ネイオカ ガハボス エフ

シンショウ ショウエン ロウナ コウジン

カヌオウェ  ネイオカ ガハボス エフ

シンショウ ショウエン ロウナ コウジン


 血が舞った。サメは何人かの黒服を食べた。暴れた。地面は揺れる。一人の男がいる。暗い空の中から降って来る。忍者みたいに、音も無く。彼は魚を両手に抱えている。空には月が見える。半月だ。月の光に照らされて、その男の顔が少しだけ見える。すべては見えない。悲しそうな顔だ。ひどく何かに対して申し訳なさそうな顔をしている。彼はどんな思いでこの場にいるのだろう? それは愛する妻と娘を守れなかった男の顔だ。

 彼は右手に持っていた魚を後ろに放り投げた。遥か後ろの林の中にいた二人の黒服にそれが刺さる。血が舞う。二人の黒服が倒れる。男はもう一つの手で持っていた魚の上に乗り、移動する。すごいスピードだ。お祈りをしていた黒服がまたジャンプする。彼女の父親もまた跳ぶ。

 空中で二人は対峙した。黒服が父親の額に自分の人差し指をあてた。わずか一秒にも満たない空中での出来事だ。グロリオサの父は咄嗟に身構えた。片方の手で自分の額をガードし、片方の手で黒服の男を突き飛ばした。  ……これで一秒。

 二人の距離は離れ、やがて別々の場所に着地した。彼女の父親は、黒服に触られたおでこを手のひらで触った。黒服は男に突き飛ばされた自分の胸に手を当てていた。 二秒、沈黙。お互いの力量が掴めたのだろう。お互い相手に呼吸の乱れを悟られないようにしていたが、わずかに両者とも息が上がっている。後ろではサメが相変わらず暴れている。黒服の人間たちを片っ端から食ってしまおうと陸に上がって追いかけ回している。


ミアオウェ ポスエフ センチェン ペクスジャ

キタワナ アガミ オーエン ルフイン

カヌオウェ  ネイオカ ガハボス エフ

シンショウ ショウエン ロウナ コウジン


 もう黒服は数えるほどしか生き残っていない。グロリオサの父は後ろを振り返ろうとしない。女の泣き叫ぶ声も誰かの骨が擦り切れる音にも、何ものにも反応しない。ただひたすらに真直ぐに、目の前の相手だけを見ている。

 わずかに彼の方が早かった。魚に乗って彼はもう一度宙を舞った。黒服の男は反応がコンマ数秒だが遅かった。彼は得意のジャンプをするのではなく、ただ単純に体の重心を横にスライドさせた。良い判断だ。でなければ、彼はグロリオサの父に刺されていた。

 グロリオサの父は彼が跳ぶことを想定していたせいか、彼を仕留めそこねた。心臓に魚は刺さらなかったものの、黒服の男の頭を魚がかすった。黒服の長い目だし帽のようなフードに魚は刺さった。黒服は目だし帽を取った。僕は思わず声をあげた。彼の帽子とマントは、地面に脱ぎ捨てられた。黒服の男が顔を表した。僕は訳が分からなかった。

 


「え?」


僕は思わず隣のグロリオサを見た。彼女もまた、驚愕していた。言葉を失っていた。今にも失神しそうなほど顔が青い。

 グロリオサの父は僕そっくりの男に向かって何かを投げた。魚なのかそこら辺の棒きれなのかはわからない、細長いものだ。僕そっくりな男は宙を舞い、その間のわずかな時間に体をひねらせた。目の横にわずかに棒(魚かもしれない)がかすった。「僕」はそれを宙で掴み、そっくりそのまま同じようにグロリオサの父めがけて投げた。

 後ろではサメが黒服のほとんど全員を殺していた。彼はその棒をかわそうとしたが、後ろにはサメがいた。一瞬、彼は後ろを見た。ほんの一瞬だった。それが命取りだったのかもしれない。棒は彼の心臓付近に刺さった。「僕」は少し離れたところに着地した。両者からは血が出ていた。グロリオサの父の方が、心臓に近い所を負傷したため重症かもしれない。「僕」は目の横から血を流していたが、それを拭おうとはしなかった。サメはまだ暴れていた。

 「僕」は、林の方にジャンプし、姿をくらました。グロリオサの父には、そいつを追いかけるほどの体力は無かった。彼はその場で倒れた。サメが暴れていた。林の中をサメが突っ切った。たくさんの木が倒れた。まるでサメが自分自身を傷つけているかのようだった。音楽はまだ終わっていない。

 そこで僕は空を舞うような、吐き気のするような感覚に襲われた。一瞬、本当に体内の物を吐き出しそうにもなった。歌が聞こえる。


本当に欲しいものを彼は何一つ得られない

21世紀の精神病者……


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