第6話 起きることで忘れるとしても夢は必ず存在する

 僕は陽が出てから少し森を歩き、近くの川で顔を洗った。久々に生き返るような気がした。彼女の方へ戻ると、すでに寝袋から体を出して伸びをしていた。


「なぜ起こしてくれなかったの?」彼女が不機嫌そうに口を膨らませた。

「君が寝ていたから」

「答えになっていない」

「それが答えなんだ」

「変なの」確かに言われてみれば変な答えかもしれない。

「あなたは寝ないの?」

「少し寝たい」

「いいわ、見張っててあげる」

「ありがとう、水を汲んできたから飲むと良いよ」僕は彼女に水筒を渡した。彼女の目は大きく見開いた。

「川があったの?」

「向こうにね」僕は川の方を指で指した。

「髪を洗いたい」

「いいね」と僕は言った。安心したからだろうか、なぜかあくびが出そうだった。僕は少し伸びをし、眠りに落ちた。


 その日僕らは数時間歩いた。林を抜けるように、故郷を離れるように。食料は半分ほどになった。非常食はもともとそれほど常備していたわけでは無い。僕たちは腹を空かせていた。


「早く町に出たいな」

「うん」

「ちゃんと町のホテルに泊まるんだろうな?」

「泊まる」彼女は小さな子供みたいに不愛想に言った。

「いい子だ」


 夕方に、ヒトの足跡らしきものを見つけた。僕はそれを発見すると、安心からか、急に力が抜けた。体に力が入らず、僕はその場で眠ってしまった。


「少し眠るよ、本当に眠くて仕方ないんだ。悪いけど」

「構わない」僕は寝袋も使わず、座ったままの姿勢で木にもたれかかりながら眠ってしまった。途中で何回か起きようと試みたが、身体は全く動かなかった。


 夜中に目を開けると、彼女は僕の前で寝袋を広げ、その中で小さく丸まっていた。その姿は本当に小さな子供のようだった。彼女はきっと、子供のまま大きくなってしまったのだろう、僕にはないものを彼女は持っている気がした。僕には何かが欠けている。と同時に、何かが彼女の成長に欠けている。成長に必要な何か特別なものが、彼女の人生の中で大きく阻害されているのだ。しかしそれは、およそ他人にも、彼女本人でさえもどうしようもない事でもあった。そんなことを暗闇の中でぼんやりと思った。


 夢が見たかった。どんな夢でも良かった。でも僕は夢を見る暇も無いほどぐっすりと眠った。ほんとうは夢をどこかで見ているのだろう、いったん起きてしまうと、もうその夢の記憶はどこにもない。夢を見ていたことさえ忘れてしまう。何もなかったことにされてしまう。誰も何も覚えていない。文字通りそれは失われる。


 僕は夢を覚えていたい。




 翌朝、僕たちは二人そろって同じ時間に起き、鞄の中の食糧を少しだけ食べ、出発した。途中で何回か休んだが、昨日より体は軽い気がした。それでも肩や腰は痛い。


「君は大丈夫かい?」

「何が?」

「体が痛かったりしないのか?」

「髪をシャンプーで洗いたくて仕方がない」彼女は淡々と答えた。

「そうだね」

「歩こう」

「そうだね」とはいえ、僕たちは疲れていたことに変わりなかった。


 黙々と歩き、その日の夕方あたりに小さな集落を発見した。

「町だ」彼女が指を指す。僕は頷いた。

「倒れないでね」

「ああ」実は先ほどから僕は右足に痛みを感じていた。とにかく早く町に降り、安全な場所で横になりたかった。

「魚があればいいんだが」僕は急ぎ足で街に向かった。

「町にはきっとある」

 彼女も疲れているのだろう、目の下は黒くなっていたし、若干息も上がっている。


 僕らが街に着いたのは日が暮れてからだった。運よく、ホテルには一つだけ部屋が空いていた。ベッドは彼女に譲り、僕はソファで寝ることにした。くたくたで食事は摂らなかったが、彼女は町の中心で空間に浮いている数少ない魚たちを何匹か取ってきてくれた。僕は久々に魚を見た気がした。そう言えば僕の人生の中で、魚に触れない日があったのは(記憶のある限り)初めてのことかもしれない。彼女はその魚を冷蔵庫に入れ、僕に紅茶を淹れてくれた。


「君も他人に気を遣えるんだな」と僕はからかった。

「隠してたでしょ」彼女は僕の足を指さした。見ると、僕の右足の親指はひどく内出血していて、皮膚が青黒くなっていた。

「いや、ここまでひどいとは思わなかった。ちょっと痛いな、とは思っていたけれど」これは本当だった。僕はホテルについて靴を脱ぐまで、自分の足がどんな色をしているかなんて全く気にもしなかったのだ。

「でも痛かったでしょう?」

「少しね。でも歩ける。肩や腰の方がバキバキだ」

「そういうことは早く言わないとダメ」

 彼女は僕を風呂場に連れていき、足に水をかけてくれた。僕が断っても聞かなかった。

「あなたがいないと困るのは私だから」

「泣けるね、それは」

「私のためよ」

 あくまでも私の目的達成のために行動している、そのような表情を彼女は崩さなかった。しかしそう言いながらも、彼女は丁寧に僕の足を洗い、手持ちの絆創膏を何枚も貼ってくれた。


「何かあったら言うこと」彼女は簡潔に言った。その直後、僕は風呂場から追い出された。彼女は一刻も早く頭を洗いたかったのだ。適当にベッドに寝ころんでいると、いつの間にか眠りに誘われてしまった。エネルギー切れだった。

 

 次の日の朝、彼女は隣で寝ていた。僕の身体は幾分軽くなったように感じられたが、それとは対照的に何か心に引っかかるものがあった。今日の空が濃い緑色だからかもしれない。僕はカーテンを目いっぱい開けてみたが、気分は大して優れなかった。

 とりあえずシャワーに入り、歯を丁寧に磨いてみた。洗面所から出ると彼女は目を覚まし、ホテルのテレパシーテレビを付けていた。僕の家にはテレビというものがないから、それはとても新鮮だった。朝の何でもないニュース番組。大したニュースは無い。どこかの高校が卒業式だった、とか、町の誰かと誰かが結婚するとか。彼女は白いバスローブだけを身に着けていた。振り返り、僕の方に気付いてじっとこちらを見た。

 

「足は大丈夫?」

「昨日よりいい感じだ」僕は彼女を上から下まで眺めた。彼女の身体は全体的に細い。

「君はもっと栄養を付けるべきだな」

「あなたも」

「それに男と二人きりになる時にはあまりそんな格好はしない方が良い」

「なぜ?」

「君は不用心すぎる」

「でも私にはわかるのよ、あなたはとても良い人だって」

「そうかな、僕には僕自身が一切わからないけれど」

「私が良いってことは」と彼女は言いながらテレビのチャンネルを変えた。

「それでいいの」

「でも割とこっちは困る。何かあったら男の方が不利になるんだよ、この世の中ではね」

 暫く彼女は黙っていたが、やがてぽつりと

「そうね」と言った。

「そうかもしれない」彼女は納得してくれたみたいだった。

「そうなんだよ、実にこの世は理不尽なんだ」

「でも疲れてるの」と彼女は言った。

「服を着る気力が無いの、本当に」

「朝食は食べに行こう、きっとバイキングだから豪華だよ」彼女はそれに応じた。ここのホテルのバイキングは悪くなかった。種類も少なくなく、海鮮ものが充実していた。僕は朝からイクラと寿司を食べた。彼女は僕の皿を見て、呆れたように言った。

「本当に魚が好きなのね」そんな彼女の目の前には、豆と海藻と豆腐がついたキャベツたっぷりのサラダ、それに赤い色の野菜ジュースがあった。

「毎日食べているからね。この魚は割と良いものだよ。君も食べると良い」

 僕は自分の皿にのせていたサーモンを一つ彼女にあげた。彼女は手でそれを掴み、一口でぱくりと食べた。

「まあ、悪く無いわね」

「だろ?」

「あなたにも、これを上げるわ」彼女は僕の更にニンジンのソテーをくれた。甘い味がした。なかなか悪くなかった。


 その日、僕はホテルで一日中寝ていたが、彼女の方は何やら町の方へ繰り出して行った。ちょっと調べたいことがあるとかなんとか。僕もついて行きたかったが、いかんせん足がうまく動かなかった。

 

「何かあれば」と僕は言った。

「これを持って行けばいい」僕は瓶の中に詰めた銀色に光る魚の心臓を彼女に渡した。

「ありがとう」彼女は首を傾げたまま受け取った。

「何かあったらこの瓶の中に口を入れて話すんだ。そうすれば僕の方にメッセージが聞こえる。試しに喋ってごらん」


 彼女は瓶の蓋を開け、中に向かって「あ、あ」と話してみせた。僕は魚の本体を持っていたのだが、その本体からも「あ、あ」と彼女の声が聞こえた。


「すごい。私の声が聞こえる」

「魚にはいくつもの隠れた機能があるんだよ、本当の話。まあ、要は使いようなんだけどね」色々な機能を知っていても、その「使い道」を考えられる人は少ない。

「あなたってスパイみたいね」

「君はじゃあなんだろう、女勇者かな?」

「いいわね。行ってくるわ、スパイさん」彼女は満足げに魚の心臓を持って出かけて行った。

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