第2話 真っ赤な太陽に昇る竜巻をクジラは涙で見つめてた

 夕方、何気なく僕は窓を見た。発電所は僕の家から見えるくらい大きくなっていた。きっと昨日のうちに何かが変わったのだろう。この町ではそういう事がたびたび起きる。発電所の前にあった山が消えてしまったのかもしれない。


 その日の空は濃いピンクだった。なかなかあたたかい気分になっていいものだ。その日も空は歌っていた。



〽真赤な太陽に 昇る竜巻を

 大きなクジラは 涙で見つめてた

 自分が来た水面に手をふりながら

 東へ歩いたよ 朝昼夜までも



 しばらくして僕の目は、小さな一つの影が発電所に向かうのを捕えた。もう曲が終わってしまって、その余韻に浸っている頃だった。その影の主が隣の家の少女であることがわかった。はっきりと見えたわけじゃない。でも僕にはわかった。直観と言ってもいいのかもしれない。迷いのない足取りで発電所に向かう影の主を僕は鮮明に想像することが出来た。僕は考える前にその後を追っていた。


 発電所の前の原っぱで彼女の後ろ姿が見えた。彼女は一心不乱に歩いていた。その姿は猪突猛進。彼女に気付いてほしい気持ち半分、彼女に気付かれないまま彼女を追っていたい気持ち半分。

 僕は成り行きに任せた。彼女は前だけを見ていた。歩くスピードは決して緩めない。どんどん進み、発電所の下に着くと突如彼女は立ち止った。


 僕はゆっくりと彼女に近づいた。彼女は殆ど五感全てを使い、全神経を傾けて発電所を凝視していた。その気迫には少々圧倒された。彼女にはどこか近づきがたいオーラが漂っていた。僕らは歩みを止めなかった。地面は砂利と草だったから、足音はゼロにできない。彼女は素早く僕の方を振り返った。


「やあ」と僕は言った。なんだか自分の声じゃないような気がした。彼女は丸い目をこちらに向けたまま、微動だにしなかった。

「また会ったね」彼女は僕を見たまま黙っていた。

「発電所が好きなんだ?」と僕が聞くと、彼女は頷いた。

「好き、というか」彼女の声は震えていた。小さい。思ったより、低い。空気の多い声。

「魅かれる」

「好きなんだよ」と僕は言った。

「それは」彼女はよくわからない、と言うように首を傾げた。

「わからないかもしれないが、気になるということは好きだということだよ。たぶん」

「わからない」

「いつかわかるさ」

 沈黙が僕らを包んだ。目の前にあるのは、大きな建物。


「今日は何をしていたの?」

「本を読んでいた」ぽつぽつと、彼女は語り始めた。

「何の本?」

「歴史の本と……昔の写真……」

「昔の? 何の写真?」

「おばあちゃんと、お姉ちゃん……」

「お姉ちゃん?」僕は驚いた。

「君には姉がいたのか?」僕はここに来てから、一度も彼女のお姉さんを見かけたことは無かった。ずっと彼女と、彼女の母と父の三人暮らしだと思っていた。と言っても、彼女の父も見かけたことは無いけれど。

「お姉ちゃんは、私が、小さいころに、生まれる前だったかな、わからないけど、とにかく、むかし、いなくなった」

「死んじゃったの?」

「たぶん」

「それは気の毒だったね」

「うん」

「お姉さんのこと、覚えている?」彼女は首を振った。

「でもきっと会えば、わかる」

「すごいね」

「うん」

「僕には兄弟がいないからわからないな」

「あなたはひとり?」

「そうだよ」

「いつから?」

「うーん」今度は僕が首を傾げる番だった。

「僕は気づいたら魚類解剖学者だった。ずっと昔から、今も、そしてこれからもずっと。でも詳しいことは覚えていない。昔のことだからね」

「昔のことは、忘れるの?」彼女の純真な目がこちらを向いていた。彼女は興味のあることを話すとき、目が開くみたいだ。

「たぶんね」

「ふしぎ」

「君は覚えているの?」

「私には、箱があるから」

「箱?」

「記憶を詰め込む箱。あなたには無いの?」彼女は何でもないことのようにさらりと答えた。

「無いよ。そんなもの聞いたことも無い」

「そう? 変なの」

「初めて聞いたな」

「変なの」彼女はもう一度言った。

「私は生まれた時から、持っているけどな。みんながそうだと思ってた」

「僕にはどうやら箱が無いみたいだ」僕には彼女が一般的であるのか自分が一般的であるのか、判別はつかなかった。

「君はその箱を生まれた時から持っているんだね?」

「あたりまえでしょ?」彼女は当然といったように表情を変えずに言う。

「それは、他の人も持っている物なのかな? 例えば君のお母さんとか……」

「あの人は多分持っていないと思う」彼女は、彼女にしては早口で、僕の言葉を遮りながら言った。僕にはその言い方が、何かしら引っかかった。

「君のお母さんは持っていない?」

「うん」

「それはなぜ?」

「私とあの人は、種類が違うから、かな」

「種類?」

「うん」

「種類って……?」

「詳しくはわからない。でもお母さんは私とは違う」

「僕はどう思う?」彼女は僕を見つめた。

「僕は君と違う種類なのかな?」

「たぶん」と彼女はゆっくり言った。

「でも、あなたみたいな人のことは正直見たことが無い。だからわからない。あなたは、お母さんとも、私とも、違うと思う。あたりまえのことだけど……」

「そっか、わかった」

「傷ついたら、ごめんなさい」

「傷つきなんかしないよ」

これは本心だった。

「ただ、その能力がある者とない者がいるだけさ。君は謝る事なんてない。これは単なる事実だよ。それに、面白い話が聞けて良かった」

「ありがとう」

「礼を言うのはこっちだよ」僕は笑った。彼女は笑わなかった。

「ところで、君みたいに箱を持っている者は他に誰かいるのかい?」

「私のお父さん」彼女は喰い気味に答えた。

「いつも持ち歩いてた」

「箱を?」彼女は頷いた。

「大事な物だからって」

「ふむ」僕は考えこまなくてはならなかった。

「君のお父さんは箱の中に大事な記憶を仕舞っていて、いつもそれを持ち歩いていたんだね?」彼女は頷いた。

「君のお姉さんはどうだったんだろう?」彼女は首を振った。

「お姉さんのことはわからない。でもきっと、彼女の記憶もどこかにあると思う。確証は、無い、けど」

「そっか」僕はため息をついた。

「それを君は探したい?」彼女は首を縦に振った。

「私は、色々知りたいことがあるから」彼女の声は、だんだんと息の量が少なくなっていた。さっきよりも声が明瞭に聞こえる。

「奇遇だね」僕は笑った。

「僕も気になることはとことん調べたい性質なんだ。これでも学者だしね。気が合うな」

「そう」彼女は淡々と答えた。

「君の知りたいことの一つは?」彼女は発電所を指さした。彼女の指の先には、発電所の壁に掘られた女の人の顔があった。五人のうちの、一番右。

「私のお姉ちゃん」

「そうきたね」

 空が赤くなる。



 その日の夜は外が真っ暗になり、大音量で歌がひっきりなしに聞こえた。空には歌詞が白い文字で浮かんだり消えたりした。気分は悪くなかったが、おかげで僕はうっかり寝不足になった。僕が寝たのは結局夜中の二時か三時になった。



 〽クジラは東へ歩いたよ

  朝昼夜までも

  大陸を見てみたい

  人を愛したい

  クジラにも心はあるのさ



 「空」は夜通しお祭り状態だったみたいだ。僕は久々に綺麗な空を見た。緑がかった水色。空というのは、本来このような色だったのではないだろうか。

 時計は七時を示している。遠くの山の更に向こうに白い文字が浮かんでいた。でもそれは小さくて僕には見えない。眼鏡を探すのも大儀だったので、僕はベッドの中で静かに外でかかっている音楽を聞いていた。

 その時は昨夜とはうってかわって、ペール・ギュントの『朝』が流れていた。なかなか爽やかで良い曲だ。



 玄関から、かたん、と音がした。郵便受けだ。論文掲載のための雑誌からのお便りか、或いは回覧板か、そのどちらかだろう。それ以外に僕に手紙なんか書く奇特な人間はいない。


 僕は郵便受けの中に手を突っ込み、乱暴に中身を引き抜いた。そこには一枚の紙きれが入っていた。


「あなたは太陽を知っているか

 私は今日 山の上の教会に行く」


 不思議な字だった。丸みの一切ない、全ての線が定規で書かれたような字だ。かな釘文字もここまで極められると一種の芸術に思えてくる。思い当たる差出人はたった一人。


 少しの食糧(魚とパン)と厚手の靴、ランタン、方位磁石、チョークとカメラ、それにナイフ。ちょっと迷って小型のテレパシーテレビ。それらをバックパックに入れ、僕は手紙に書いてある山へと向かった。

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