Subsection A02「食欲と睡眠欲」

 家の中の囲炉裏では火が焚かれており、そこでお鍋が煮立っていた。茹だって吹き零れる鍋に老婆は慌てて駆け寄って、火からそれを離した。

「荷物はそこいらに、適当に置いておくれ。汁が出来たから食べさせてあげよう。そこへお座り」

「ありがとうございます」

 ユリハは頭を下げ、言われた通り囲炉裏の前に敷いてある座布団の上に座った。長年使われているであろうくすんだ色の座布団には、弾力性よりも硬さがあった。

「この山の噂はご存知だろうか? お嬢さん一人で足を踏み入れるとは、ずいぶんと勇敢じゃな」

 老婆が鍋からお玉で汁を掬って、椀に取り分けながらそんなことを話し始めた。

「噂ですか?」

 ユリハは目を瞬いて、きょとんとした表情で首を傾げている。どうやら何も心当たりがない、といった様子だ。

「まさか、噂も知らないで、この山に立ち入ったのかい?」

 それで、老婆の方も驚いた表情になる。

 ユリハは頷き返した。

「ええ。用があったので来たまでです。噂については知りませんね。宜しければ、その噂とやらを教えて頂けるとありがたいのですが……」

「ふぅむ」と老婆は一つ唸った。

「よくある噂じゃよ。この山に人を喰らう山姥がおって、旅人を次々に殺して鍋にして食っちまうって噂じゃ。だから、普通の人間はこの山に近付こうとはせん。ここへ来たのは、お前さんで久々じゃ」

「はぁ……そうなんですか……」

「ましてや、夜など、山姥の恰好の標的になりかねんから誰も山へは入ろうとせんのじゃろう」

「へぇー。山姥は夜行性なんですね」

 ユリハは感心しながら大真面目に頷いていた。山姥を野生動物か何かと勘違いしているようで、その生態系に興味津々といったように目を輝かせている。

 一方で、老婆はユリハの反応に首を傾げていた。人食い山姥の噂を持ち出して、恐れ慄かない人間などいないはずである。

 だから、いっそう怖がらせるように声を潜めながら話を続けた。

「山姥はね、迷った旅人を親切に招き入れるのさ。そして、人の肉の入った汁を食わせるそうじゃ。それも、薬品入りのな……。そうとも知らない旅人は無警戒にも汁に口を付けて、気付かぬ内に無惨にも山姥に食べられてしまうそうなのだよ」

 老婆は笑いながら、汁を取り分けた椀をユリハの前に差し出した。

 そして、探るような目をユリハへと向ける。

「そうなんですかぁ。それは、恐ろしいですね」

 ユリハは感心しながら頷いていた。余程呑気な性格なのか、警戒もせずに差し出された椀に「ありがとう御座います」と口を付けた。

 老婆はギラギラと怪しい目付きで、そんなユリハの一挙手一投足を見詰めていた。

「どうだい、お味は?」

「ええ。とても美味しいです」

 ユリハの言葉に、老婆は顔を綻ばせる。

「そうじゃろう、そうじゃろう。イノシシ汁じゃからな。肉の方も少し癖があるじゃろうが……」

「いえ、そんなこともないですよ」

 ユリハは箸で肉を掬うと、口元に運んだ。

 そんなユリハの警戒心のなさに、老婆は目を丸くしていた。

「……山姥の話しを聞きながら、汁に口をつけるとは神経が図太いお嬢さんのようじゃな」

 老婆の言葉に、ユリハはさも当然といったように頷いてみせる。

「ええ。だって、ここに来た時にお婆さんが『迷い人なんて何年ぶりだろう』って言っていたじゃないですか。何年も人が来ていないのに、人間のお肉なんて調理出来る筈がありませんもの」

「なるほどのぅ」

 老婆は苦笑する。

「干し肉かもしれんじゃろうか」

「ああ、それは確かに……」

 途端に、ユリハは顔を顰めて舌を出した。

「なぁに。冗談じゃよ」

 そんなユリハの反応を見て、老婆は笑ってみせた。

「それに、山姥が出すのが人肉入りの汁だけだとは限らぬじゃろう」

「それなら、その噂に偽りが混じっているのですから、話自体に信憑性がなくなりますよ」

「そうかいそうかい、図太いお嬢さん。ならば、山姥の噂なんて恐れずに、安心して休むと良い。……奥に部屋があるから、そこを好きに使ってくれて構わぬさ」

「何から何まですみません」

 深々と頭を下げたユリハから、すぐに「ふぁ〜あ!」とアクビが漏れた。

 山道を歩いて疲れが出てきたのだろう。眠そうに目をショボショボさせながら指で擦っている。

「すみません……。休ませて貰いますね」

「結構、結構。こちらへどうぞ」

 老婆は立ち上がり、案内をするかのよう奥の扉を手で指し示した。

 ユリハはペコリと会釈をすると、宛てがわれた部屋の中へと入って行った。

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