2-1 嵐の前の静けさ

 飲み屋と花街の境目にサンタロスはある。花街を除けば、宿と食事処が別のギミナジウスにおいて、両方を併設するサンタロスは王都で一、二を争う高級宿だ。都一の料理人を雇い、粋を凝らした料理に、洗練された調度品の数々を目当てに訪れるのは裕福な観光客だけではない。王都に住む者の憧れでもあった。

 夜番の男は珍しく朝から出かける健全な観光客に気づき、閉めかけた扉を開いた。


「おはようございます」

「おはよう」

「お戻りの時間をうかがってもよろしゅうございますか」

「ああ、一日王都の見物をしようと思っているから。夜には戻るよ。それから、バルドー博士が紙が足りないと言っていたから、補充してもらえるかな」

「かしこまりました」


 農学博士の供でやってきたという護衛たちは、研究に勤しむ博士から部屋を追い出されたのだ、と苦笑しながら街へ消えた。

 店先を掃いていると、馴染み客がやってきた。夜にやってくることはあるが、朝に姿を見るのは初めてだった。


「お久しぶりです」

「しばらく世話になりたい。部屋は空いているか?見晴らしのいいところがいい」

「暁の間でなくてもよければご用意できますが」

「なんだ、金払いのいい客でも止まっているのか?」


 そう問われて、客の情報を流すような者はこのサンタロスにはいない。男は曖昧に微笑んだ。

 馴染み客はこの宿で一番見晴らしのいい暁の間のある三階を見上げた。東西に窓がある人つなぎの大部屋で、街の様子も王城も見通せると人気の部屋だ。人気に比例し、部屋代も桁違いで暁の間が埋まることは滅多にない。


「まあいい、頼むよ。しばらく世話になりたい」

 馴染み客にいつものようにずっしりと重い財布を渡された男は、いつものように「希望の間」に案内した。


 ※


「国売りのセドをするってどういうことですか」

「どういうことって言葉のままだが」


 セドの翌朝、部屋を出たブロードは、ブラッデンサ商会受付の少年イリーに、詰め寄られた。


「昨日のセドについて朝からずっと問い合わせの嵐なんですよ。ブラッデンサの人間だけじゃなくて、街の各所から詳しい話を聞かせろって。そんなこと言われたってこっちだって何も知らないって言ったって聞きやしないんですから」


 いつもはきれいに整えられているイリーの髪は乱れ、目は血走っている。ブラッデンサ商会の受付は一番下っ端の中でもジャルジュに見込まれた者が修業のために任される職だ。客への顔つなぎと客あしらいを覚える場。イリーはこれまでの受付と比べても優秀だった。そんな彼をしても対応しきれない事態だということか。ブロードがため息をつくと、イリーはジャルジュの袖を引っ張った。


「とりあえず、来てください」


 朝食の時間は終わっているのに、食堂にはブラッデンサ商会で働く人間が集まっていた。セド翌日のブラッデンサ商会は忙しい。体力勝負の男たちが取ってきたリドゥナを仕分けなければならない。それでも何も聞かずにいつも通りに仕事ができなかったのだろう男たちが食堂を埋め尽くしていた。中央に一席、ブロードのための席が空けてあった。


「おいおいおい、ジャルジュがキレるぞ」


 ブロードは全員の視線を一身に受けながら厨房に向かった。大変だね、という食堂のおばさんの目配せに、まったくだと苦笑いで答え、自分用のスープをとる。ヤムサ草のスープは病み上がりに優しいスープとして有名だ。どこにでもある雑草程度の草から作れるわりに美味しい。ブロードの好物だ。


「ブロード様、国買うんですか?」

「俺たちどうなるんですか?」

「昨日めちゃくちゃ取りまくったリドゥナこのまま進められるんですか?」


 ブロードが席に座るなり、四方八方から質問が投げ込まれる。ブロードはスープに浸そうとしていた匙を置いた。

「ハル・ヨッカーの後見なのは本当だ。だがな。所詮ハル・ヨッカーの案件だ。お前らもセドの男だ。そんなことくらいわかるだろう。何をそんな浮足立ってる?」

「そんな! でも後見なんて、しかも国売りなんて。一歩間違ったらブロード様まで巻き添えになるじゃないですか!」

「そうですよ、あんなののためにブロード様が犠牲になるなんて許せません!」

「そうですよ、すぐにハル・ヨッカーのところに行って――」

 荒っぽい男たちに言葉など時に無意味だ。

 ブロードは駆け出そうとした男の足を踏んだ。


「まて! お前たちの話だと俺が死ぬみたいじゃないか」

「そんなの当たり前でしょう。国売りで、あのバカ王で、参加するのが、陰険野郎のニリュシードときたら、まずラオスキー侯爵とタラシネ皇子に取り入って、こっちが潰されるのは目に見えているじゃありませんか」

「俺たちはこんなことでブロード様を死なせたくないんです」


 踏まれた痛みなどなんのその。男たちは倍の勢いで返した。

「心配してくれるのは有難いがな、お前ら一体俺をなんだと思っているんだ」

「だってブロード様、リドゥナをとるのは別格ですけど、交渉事なんてからきしじゃないですか。いつもいいように借金押し付けられて」

「そうですよ。あまりに仕事しないから交渉任せられて負けるはずのない簡単なセドで負けたじゃないですか。あの尻ぬぐいがどれだけ大変だったか……」

「うるさい! 人には向き不向きってモンがあるんだよ。とにかく、俺は死なないから、飯くらい食わせろ。大体、ブラッデンサ商会としてどう動くかということなら、ジャルジュに聞け、ジャルジュに。俺はリドゥナを取る。実際の仕切りはジャルジュ。お前らそんなこと言われなくても分かってるだろ!」


 これが本来商会を取り仕切るはずの会頭の言葉なのだから情けないが、ブラッデンサ商会に限って言えば、正解だった。


「だって……」

 とたんに男たちがもぞもぞとしだした。

「ジャルジュ様昨日からおっかないんですもん」

「そう、話しかけたらすごく睨まれたし」

「俺、殺されるかと思った」


 屈強な男が、「もん」とか気持ち悪い限りだ。とどのつまり、ジャルジュに聞けないから、ブロードに聞こうということらしかった。ブロードは、盛大なため息をついた。


「とりあえず、今日この後、ハル・ヨッカーと話し合う予定だ。お前たちは他のセドに取り掛かれ。昨日はハル・ヨッカー対策していたせいで、リドゥナが大量にあるはずだろ。それの処理は終わったのか?」


 びしっと男たちは固まった。

 対、ハル・ヨッカー作戦として、ジャルジュが本気で挑んだため、今回のセドの収穫は前回の二倍だった。


「ふーん、自分の仕事ほったらかしてこんなところにいたのか。それこそ、ジャルジュに知られたらなんていわれるかな」

「し、失礼します」


 あっという間に男たちは散っていく。食堂にはブロードとイリーが残った。改めて匙を手にとったブロードはふと手を止めた。


「お前、ここまで見越していたな?」

「これで商会内で馬鹿な質問してくるやつらからは解放されますね」

「俺はときどきお前が小さいジャルジュに見えるよ」


 ブロードは肩をすくめた。食えない人間が増えるのは悩ましいが、セドに素直な人間など必要ない。


「光栄です。それとひとつ。ワリュランス・ビュナウゼル様がいらっしゃっていたので応接室に通しておきました」

「それを早く言え。ハルは一緒か?」


 ブロードはハル・ヨッカーの同居人兼自称伴侶のサイタリ族の名に腰を浮かした。


「一人でした」

「一人だと?」

 嫌な予感がした。

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