3:聖女は滅び腐敗蔓延る(7)

 動きを止めた魔神に寄りかかり、シャルはどうにか身体を支えた。クレフは自身も息苦しいのを置き、名を呼んで駆け寄る。


「おい、あんた――」


 返り血はない。真っ黒な泥を捏ねたような魔神に、血などは流れていないらしい。

 彼女の額や頰に、短い銀髪が張り付いている。いや汗はそれだけでなく、見る間に法服の色を変えていった。

 ここまでどんな道にも平然としていた彼女が、山間の涼しい風に湯気を立てている。新しい空気を貪るような呼吸が、消耗を如実に示した。 


「あんた、自分に奇跡の業を使うとか出来ねぇのか」

「……そんなことより、ミラさんを」


 ――そんな状態で人の心配かよ。

 言うことを聞かない喉を叱るように、シャルは首を強く押さえて言った。ひしゃげた声とは裏腹に、その目は変わらず力強い。

 しかしたしかに、少女が危険であるのも事実。視線を向けると、家屋の陰を使い、屋根に上り、魔神を翻弄しているのが窺える。

 先と同じく真っ黒な魔神が二体。少しばかりスリムに見えて、動きが格段に速い。


「牽制しか出来ねえが」


 ミラと魔神とは、おあつらえ向きに離れていた。

 視界に入るのが魔神だけなら、矢を射ることが出来る。まだ手に些か震えは残るが、慎重に弦を引く。

 ただこれを放てば、二体のうち一体。悪くすれば二体ともが、こちらへやってくる可能性もある。

 そこは神聖語を呟き始めたシャルを信じるしかなく、最悪はどう逃げるかと地図を思い浮かべた。


「――祝福の聖炎ヴェネ・サンディス!」


 いつかの癒しと同じく、紡がれた言葉の最後が強く結ばれた。

 それで苦しそうな表情が緩むのかと思えば、シャルが手を伸ばしたのはクレフの番えた矢だ。

 集まる赤い光が、矢に移る。その次には黄金の炎がやじりを包む。

 彼女の頷きに従って弓を引き絞り、放つ。いつも通りに風を切って、矢は一方の魔神に中たった。

 狙ったのは、喉元辺りの胸だ。実際は、脚の付け根。これでは魔神が気付かず、牽制にならないと思った。

 だがシャルの呼んだ奇跡は、魔神の大木のような大腿をもぎ取った。


「お見事、です」


 その魔神がもんどり打って倒れたのを、シャルは静かに評した。まだ息は戻りきっていないようだが、メイスを構え直して走る。

 ――オレの何が見事なもんか。


「ミラさん、わたしが引き付けます!」

「うむ、任せる!」


 少女に掴みかかろうとする残りの魔神に、シャルは横殴りのメイスを食らわせた。やはりそれはどれほどのダメージも与えないが、関心を買うことには成功する。

 素早い四本の腕に追い回されていたミラが、ようやくひと息をつく。けれどもその素振りだけで、汗の一つもかいてはいない。


「このような者ども。儂の血肉の、一滴いってき一粒いちりゅうにも劣る」


 ぼそり言って、少女は跳ねた。家屋の屋根に上がると、そこからさらに。魔神の背丈を優に越える位置から、真上に振りかぶった剣をまっすぐに振り下ろす。

 激烈なシャルの戦い方と反対に、心を静めて布を織るようなミラの剣筋。

 刃はそこを通ると最初から決まっていた。そう思えてしまうほど素直に、魔神は切り分けられる。


「いやいや、お見事。お見事」


 もやもやとした胸に後ろめたさが募って、卑屈な態度となってしまった。

 クレフにとって戦いとは、盗むことだ。それが猟の獲物であっても、奪うべきお宝であっても。打ち負かすのを目的としたことはなかった。

 だから魔神などという敵を前に、役に立たなくとも仕方がない。

 理屈ではそれで間違いなく、それを繰り返してきたシャルと同じことが出来なくとも当たり前なのだ。

 ――オレはいったい、どんな面をしてりゃいいんだ?


「ええ本当に。実はわたしも、これほどの力と素早さを持つ魔神に出遭ったのは、初めてです」


 シャルの同意は、ミラに対するものだ。ようやく這いずってきた最後の魔神にとどめを刺し、優雅な動きで剣を納める少女に。

 だが彼女の驚きは、言った通り魔神の強さにも向けられているらしい。戻ってくるミラを迎えつつ、動かなくなった三体の魔神を眺める。


「そんなに違うのか」

「――一撃を受けるだけでも危ういのは同じです。ですが今回は、うまく言えませんが底力のようなものが」

「そういや、魔法も使ってこなかったな」


 魔神の怖ろしさが肉体的な力だけであれば、魔神戦争などという泥沼には陥らなかった筈だ。

 ここに居たのが魔法を使わない個体だから勝てたものの、そうでなければこちらが全滅していたかもしれない。

 現に戦い慣れている筈のシャルでさえ、まだ息が荒い。その上に常識を超えた力が働くのだ。


「その理由は、儂が居るからじゃ」

「ミラさんが? 何かご存知なんでしょうか」


 腕組みをして、会話を聞いていたミラ。機嫌が悪いというのか、気まずいというのか、面倒くさいというのか。何とも渋い表情で。

 何から言えば良いか。などと似合わない前置きがあって、少女は覚悟を決めたように言った。


「うぬらが魔神と呼んでおるもの。あれは儂が作った」

「……いま、何と?」

「お前が作ったって、それじゃあまるで――」


 魔神を作りだした存在。

 それはこの世界を恐怖の底へ叩き落とした、最悪の存在。

 ミラはその問いに、首肯する。


「魔神王、じゃったかな。うぬらがそう呼ぶのは、おそらく儂のことじゃ」

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