第十三話 ハイジ、犬を見直す

 タロが神家かんやを出て、こっちに来て、二ヶ月ちょっとが過ぎた。タロにとって神家の中はホームだけど、こっちは完全アウェイだ。よくがんばってると思う。相変わらずぼーっとしてることが多いけど、前よりはずっと外に関心を持つようになった。

 一緒にスーパーに買い物に行く時も、これはなにあれはなにがうるさい。でも、シャラップとは言わないことにしてる。何もない神家の中に比べればこっちにはうんざりするくらい物と人が溢れてるんだ。いろいろ聞きたくなる気持ちはわかるもん。田舎でこれだから、東京とかに連れてったらショック死するかもね。


 一番心配していた仕事も、水試の手伝いはタロ向きだった。水槽の水の入れ替えと清掃、循環ポンプのフィルター掃除、網や籠の補修。みんな華のない地味な仕事ばかりだけど、加工場みたいに急かされることはなくて、黙々と手を動かす仕事だ。タロは要領はよくないけど、時間はかかっても丁寧に仕事をする。見かけと違って、ちゃらけたところはどこにもないんだよね。

 仕事ぶりを見ていた所長の黒部くろべさんがタロのことをすごく気に入って、一年契約で非常勤職員として雇用してくれた。小野さんや児玉さんが大喜びしてるのに、当の本人がぼーっとしてるのはなんだかなあだったけどね。


 あとは身元の確定。警察での捜索には限界があるんだって。法務局に無戸籍者を申告して、審査の時に身元を調べてもらうってことになるらしい。タロの場合、身元が判明するってことは未来永劫ないはずだから、審査が通ればオリジナルの戸籍がちゃんとできると思う。

 あとは住民登録だけど、事情をよく知ってる福祉課の佐瀬さぜさんて人が手続きしてくれた。まずおばあちゃんちに仮置きして、独立したらそこに移せるっていう風に。


 近所付き合いも、タロなりに努力はしてる。自分から話しかけるっていうのは、わたしに対して以外はすごく苦手みたいだけど、それでも誰かの呼びかけは絶対に無視しない。挨拶はちゃんとするし、何かしてもらったことには必ずお礼を言う。そこがタロの長所なんだよね。

 無口でぼーっとしてるタロは、本当ならすごく浮くはずなんだ。でもすごく礼儀正しいってことが、悪い印象を消してくれる。わたしもタロといて、嫌な思いをさせられたことがないもん。


 問題は……相変わらず薄味なこと。好き嫌いっていう感情は自然にわかるよって言ったんだけどさ。本当にわかるんだろか? 相変わらず喜怒哀楽が顔や行動に出ないから、何を考えてるのかよくわかんない。

 くっきり喜びが顔に出るのは、好物のお魚食べてる時だけだなー。漁協でも水試でもよくお魚をもらえるみたいで、その時はスキップしそうな勢いで帰ってくる。目尻が下がって、目が漢字の八の字になるんだよね。まあ、タロにそういう感情があるってわかるだけでもまだましなんだろう。


 あの夏休みの衝撃の出会いから、夏の気配だけが遠ざかっていって。タロだけがぽつりと置き去られてる。わたしがタロを一方的に変えちゃってる感じがして、ちくちくと罪悪感が。んなことを考えながら、夕飯の支度をしてたら。いつの間にか仕事から帰ってきてたタロが、すいっと真横に立った。手にしているのは尺上しゃくがみの立派なクロダイだ。


「わ! それ、もらったの? 出荷サイズじゃん」

「いや」


 タロが、ふわっと笑った。初めて見る、はっきりした笑顔。


「俺が獲った」

「盗ったあ!?」


 わたしの大声にびびったタロが、こそっと下がった。


「いや……今日は、所長さんの手伝いで、船に乗せてもらったんだ」

「あ、そうだったんだ」

「うん。資源調査っていうのを手伝えって」

「あー、それわたしも部活でやってるー」

「定置網かけてたのを上げたんだけど。潜っていいぞって言われて」

「あ、貝かなんか拾っていいよってことね」

「そう。でも、俺は魚の方が好みに合うんだ」


 好み。好きとはちょっと違うけど、耳の中に響いた言葉で心臓がばくばくした。


「そ、そうだよね」

「うん。やすを貸してもらって」

「仕留めたの?」

「十尾」

「うっそおおおおっ!?」


 ちょっと。とろっとろのタロのどこにそんな才能があるわけ? 仰天したわたしがぱかっと口を開けていたら、照れたようにタロが言った。


「俺は……海の中の方が自由に動けるんだよ」

「あ、そうか。神家にいる時には、そうやってご飯を確保してたってことね」

「そう。それで、潜水調査を手伝うことになった」

「すっごおい!」


 照れ照れ照れ照れ。照れまくったタロの顔が真っ赤になった。

 自分が誰の役にも立っていない。迷惑ばかりかけてる。そういうコンプレックスみたいなのが、タロを後ろ向きにさせてたのかな。でも海に戻ったタロは、まさに水を得た魚。気持ちも含めて伸び伸び自分を解放できたんだろう。すごいなあ。


 タロだけでなくて、わたしも赤くなってたみたいだ。こそっとわたしの顔を見たタロが大きなクロダイを流し台にどんと上げた。


「いつももらってばかりだったから。ほんのお礼だ」

「うん……ありがと」


 なんか、うるっとくる。


「ねえ、タロ。残りのお魚は?」

「所長さんに聞いたら、漁業権が関わるから小野さんに確かめてと言われた」

「うん」

「一尾は水試のみんなで食べることにして。残りは小野さんのとこに置いてきた」

「わあ! 小野さん、すごく喜んでたでしょ?」

「うん」


 そりゃそうだ。綏で突いたんなら市場には出せないけど、このサイズだったらさくにして売ってもいい値がつくもの。すごいなあ……。


「じゃあ、わたしも張り切ってさばかなきゃ!」

「いい。俺がやる」


 わたしの前に、すっかり日焼けした腕がにゅっと突き出された。


「こいつは骨が硬いからな。ノリにはきついよ」

「うん……ありがと」


 どこを向いているのかわからなかったタロの心が、ちゃんとわたしの方を向いてる。はっきりそれがわかった。ああ、どうしようもなくどきどきする。その時からわたしは……わたしっていう船がタロに向かって舵を切ったことを強く意識するようになったんだ。


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