第四話 ハイジ、犬小屋を整える

 わたしを船に乗せてくれた漁労長の小野さんは、えらいこっちゃの中身がぐるっと変わってほっとしてたと思う。もしわたしに万一のことがあったら、本当にしゃれにならなかったんだ。でも、応援頼んで戻ってみたらわたしが水難救助してたってことがわかって、安心したみたい。


「さすがはのりちゃんじゃ。あんたのじいちゃんも男気ぃある人じゃったが、のりちゃんもじゃのう」

「うう、わたしは女ですぅ」

「はっはっは! こんまいことはええんじゃ! はっはっは!」


 おしゃべりな小野さんのことだ。わたしとタロの話はさっと広めるだろなあ。でも、こういうのは隠すより広まってしまった方がいい。だって、わたしはおばあちゃんちに下宿してる。下手に隠して両親に不正確な情報が伝わったら、強制的に呼び戻されちゃうから。

 それに、小野さんは本当に頼りになるんだ。だてに漁労長はしていない。顔は広いし、親切でよく気が利くし、いろんな決まりごととか仕来りもよく知ってる。だから、こういう時にはわたしが何も言わなくてもどんどん手伝ってくれる。


「まず駐在さんに身元を確かめてもろうてじゃのう」

「はい」

「のりちゃんは、あいつから身元のことを何か聞いとるか?」

「名前だけです。変わった名前でした」

「ほう?」

「いぬかんやって」

「なんじゃい、そりゃ」


 小野さんが、口をぱっくり開けて呆れてる。


「そがいな名前は、聞いたことないのう」

「わたしもです」

「変わった名前じゃけん、すぐ見つかるかもしれんな」


 いや、それはありえないと思う。戸籍上の名前じゃないもん。


「それより、どこで世話するかじゃのう。記憶がないんじゃろ?」

「はい。まだ体調もよくないみたいだし、しばらくはうちで面倒見ます」

「ええんか? 若い男じゃけんど」

「うちは両隣におばちゃんたちがいて、目が多いから」

「はっはっは! それもそうじゃな。駐在さんにも様子見るよう話しちょくけん」

「お願いしますー」


 タロに真っ先に必要になるのは、犬小屋だ。神家で神様として暮らすならあそこにいるだけで万事オッケーなんだろうけど、わたしたちの世界ではそうは行かないよ。こっちで暮らすのはものすごくめんどくさいの。それを今のうちにしっかり教え込んでおかなきゃなんない。

 神様でなくなったら全てを自力で作らなきゃなんないけど、居場所だけは先行して確保しないと何も始められない。おばあちゃんの家での同居は、そのための先行投資。あくまでもサービスだ。タロに、当たり前の権利だと思われるのは困る。


「じゃあ、家に帰ります。追加で何かわかったら、駐在さんと小野さんに連絡しますね」

「そうじゃね。ああ、のりちゃん。今日はハタのいいのが上がっとるけん、一本持ってけ」

「ありがとうございます!」

「ばあちゃんによろしくな」

「はあい」


 やりぃ! お魚までもらっちゃった。わたしが海に落ちたのを気にしたのかもしれない。落ちたのはわたしの不注意なのに、気ぃ使わせちゃったな。でも小野さん、ありがとー!


◇ ◇ ◇


「おばあちゃん、彼、気がついた?」

「いんや、まだ寝とるが」

「そっか……」


 気を失ってるタロの服を小野さんに頼んで着替えさせてもらって、うちに担ぎ込んだ。びっくりしていたおばあちゃんに事情を話して了解をもらう。おばあちゃんは優しいから、困ってる人を見捨てるってことは絶対ない。さっと客間に布団を敷いて、タロを寝かせてくれた。


 エアコンがなくて暑い家の中。タロの枕元に座ったおばあちゃんは、うちわで顔に風を送ってる。その光景を見て、わたしは幼かった頃を思い返す。夏休みに親と一緒にここに来たら、寝る時にいつもおばあちゃんがうちわで顔をあおいでくれたんだ。潮風に混じった蚊取り線香の匂い。それがわたしの褪せない夏の記憶。脳裏に強く焼き付いて、今までわたしをここにつなぎとめてきた。


 でも。少しずつ光景は変わってる。おじいちゃんが……亡くなってしまったから。


 おじいちゃんの死後、ひっそり静まり返ってしまった家の中。お母さんはおばあちゃんに、一緒に暮らそうって毎年声をかけてるんだ。でもおばあちゃんは、おじいちゃんと一緒に長く暮らしてきた本井浜もといはまの港を離れたくないみたいで、一人でも大丈夫って言い続けてる。

 男の気配が絶えてしまって、いつも寂しさだけが支配するようになった家の中。そこに、久しぶりに男性がいる。おばあちゃんは、それをどう思うんだろうな。


「のりちゃん」

「なにー?」


 台所で小野さんからもらったハタをさばいていたら、おばあちゃんがにこにこ顔でやってきた。


「ええ男じゃのう」

「あはは」


 中身が犬っぽい変な神様でなければねえ……。


 開け放たれた客間の窓と襖。窓からは潮風が吹き込んで、家をいっぱいに満たしている。どの部屋からも港が見えるこの家は、おばあちゃんやお母さんにとってだけじゃなくて、わたしにとっても大事な家だ。ただ……もしおばあちゃんが亡くなったら、ここは思い出の場所に変わってしまうんだろう。鼻をくすぐる潮風は、決して甘くない。おっと、湿っぽくなっちゃった。


「おばあちゃんは、お刺身がいい? 煮付ける?」

「暑いけん、洗いにしよか」

「あ、それいいかも」


 さくに切り分けた身をラップで包んで冷蔵庫に入れ、あらはあとで炊くことにして一度冷凍する。


「さて。そろそろタロを起こさないとね」

「タロ?」

「彼のことでわかってるのは名前だけなの。犬神家太郎。記憶をなくしてるみたいで」

「そりゃあ難儀じゃのう」


 おばあちゃんは、さっそくおじいちゃんの服が入っていたタンスをかき回しに行った。おばあちゃんの「気の毒な人回路」がフル稼動したから、きっとびっちりタロの世話を焼くだろう。おじいちゃんが亡くなってからは、ずっと世話を焼く相手がいなかったからね。ふふ。


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