第3話

オイドクシアへ。

 九日にお祖父さまが往生されました。十一月の吉日にお父さまが正式に当主となられます。そのため十月のうちに一度戻ってきてください。邸宅にはクリス卿がいらっしゃるのでよく準備しておくように。


 クレベール・オイドクシアは顔を上げて、あたたかな日のさす窓硝子から外を眺めた。秋の葉をつける木々はあくまでも静かに風に揺れて、木々の向こうでは白糸のように細い滝が鈍色の岩肌を滑り落ちている。滝は葉を濡らしながら滝壺に落ちて、小川となり流れ出す。平坦な地面の中で小川はすぐに池となって溜まり、その池のふちに……ひとがいる。

 木賀きがやまとだった。オイドクシアは、池のふちの岩に足をつけて立つ同期を見つめる。とおった鼻筋と今にも歌をつむぎそうにつややかな唇、陶器のようになめらかな曲線を描く横顔に木漏れ日が揺れている。

 ——引き合わせられ、ただ一人の同僚であると知らされたときはげんなりした。こんな、へんてこりんでぼうっとしていて、笑っているだけの奴——と。いつまでたってもやめることのない妙に丁寧ぶった口調が小気味悪くて、それを言うと顔を真っ赤にしていた。それで何を言うかと思えば、気持ち悪いかもしれないから、などと。人の言葉の意味を理解しているのか、ますます呆けていて気味の悪い奴だと思った。

 今日も今日とて何をしているのかと思っているうちに、ふら、と倭は体勢を崩し始める。あっという間に体が傾いて、倭は岩から飛び降りるように池に落ちた。




「あの……金木犀を見ていたの、まさか岩が滑るなんて思わなくて」

「金木犀がどうした」

「どうした、って——」


 倭はあんぐりと口をあけたが、それからおかしそうに笑い出した。

 何がおかしい、と口には出さず目を細めると、倭はあはあはと声をこぼしながらオイドクシアを上目に見つめた。


「あのね。きれいなのよ。ちょうど花が盛りで、匂いもすてきなの。すごいのよ」

「そう」

「気にならないの?」

「ならないな」


 オイドクシアは寝椅子に腰を下ろして、肘掛に腕を置きながらゆっくり寝そべる。


「気にならないし、気にしてそのあとどうする」

「どうするって?」

「質問を質問で返すな」


 そうとだけ言って顔を腕に伏せると、倭は少しのあいだ黙ってから、「オイドクシアは花を見る理由がわからないのね」とつぶやいた。


「そういうときは、花の気持ちになればわかるのよ」

「は?」

「花がどうしてあんなにも咲き誇るのか」


 オイドクシアは思わず顔をあげた。濡れた前髪の下から、青みがかった透きとおる眼がこちらを射抜く。


「だれかに見つけてほしいのよ」


 まったくもっておかしいことを、さも真面目にまっすぐに言われて、オイドクシアは思わず押し黙った。

 倭はゆっくりと目をしばたいて、ふいっと視線を逸らす。その先にある硝子窓の向こうには、それでもオイドクシアの興味をくすぐるものなどないように見えた。


「きっとそうだわ。……だから、見つけてあげないと可哀そうじゃない」

「可哀そう……ね」


 反復して、オイドクシアはまた顔を伏せた。

 脳裏に浮かぶのは、蝶よ花よと育てられながら、精いっぱい下々の者との差を誇示できるよう学ばされた礼儀作法や言葉遣いの数々。足を引き恭しく、さも美しいかのように振る舞うその姿勢の奥にある、自分たちと異なる地位の者をどうしても下劣に置いていたいという意図に、何度だって吐き気がした。

 どうせただ、それだけなのに。見つけてほしいなどと。


「……気持ち悪い」

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