第30話:神、あるいは真なるイデア

「今、何て言った?」


 イスナの口から聞き慣れない響きの言葉が出てきたので聞き返す。


「好きと言ったのよ。いえ、この感情はそんな陳腐な言葉では表せないわ。むしろ、一種の信仰に近いのかも」


 身体を起こしたイスナは何の淀みもなくそう言った。


「なるほど……」


 どうしよう、イスナがおかしくなった。


「んっ……」


 イスナは悩ましげな吐息を漏らしながら、まだ真っ赤な痛々しい痕の残っている首を綺麗な細い指で撫でている。


「痛むのか……? 本当にすまなかった……」

「どうして謝るの?」

「いや、その……痕が……」

「私が貴方の物になったという証よ?」


 イスナはそう言いながら愛おしそうにその痕を指先で擦っている。

 

 本格的にどうしよう……。


「もう一度、質問していいか?」


 とりあえず損傷の程度を確認しなければ……。


「ええ、何なりと」

「自分の名前は分かるか?」

「イスナ」

「一つ下の妹の名前は?」

「サン」

「俺は誰だ?」

「私の絶対者」


 完全に壊れてしまっている。

 いや、俺が壊してしまった……。


「……一度大きく深呼吸してみてくれ、酸素を脳に送り込むように」


 俺がそう言うとイスナはすんなりと従い、すーはーと大きく数度の深呼吸を行う。


 そうだ、まだおかしくなったと決めつけるには早い。

 単なる酸素の欠乏で頭がぼんやりとしているだけかもしれない。


「姉の名前は?」

「アンナ」

「一番下の妹の名前は?」

「フェム」

「俺は誰だ?」

「神、あるいは真なるイデア」


 誰か助けてくれ……。


 どうすればいいのか分からずに、頭を抱えてしまう。


 とりあえず全てをロゼに報告するしかない。


 大切な令嬢の一人がおかしくなったと分かればクビでは済まないかもしれない。

 しかし、全ては自分の失態が招いた結果だ。甘んじて受け入れるしかない。


 父さん、母さん、ごめん……。


「ねえねえ」


 後悔の念で押しつぶされそうになっていると、肩の辺りをつんつんと指先で突かれる。


「……どうした?」

「一緒に寝ていい?」

「……ダメだ」


 何を言われても応じてやろうかと考えていたが流石にそれはダメだ、倫理的に。


「いじわる……。でも、そんなところも素敵……」


 うっとりとした表情でぽっと頬を染めているイスナを眺める。


 そもそも、こいつはなんて格好で男の部屋に来てるんだ。

 ただでさえ普段から肌面積の多い服装をしているというのに、これはもうほとんど下着だ。

 しかも何故か身体が濡れていて、薄いその服がくっついているせいで身体のラインがはっきりと分かってしまう。


「なぁに?」


 その身体を見る俺の視線に気がついたのか、イスナが俺の顔を覗き込みながら尋ねてくる。

 それも昨日まで、いや数時間前までは考えられないような柔和な口調で。


「いや、そもそもなんで俺の部屋に……」

「それは大いなる意思が私を――」


 ロゼを呼んだ。


「――というわけなんだが……」


 今起こった事をロゼへと説明する。


 深夜にイスナが俺の部屋を訪ねてきたこと。

 俺がそれを不審者と誤認して攻撃してしまったこと。

 それからイスナの様子がおかしくなったことを全て包み隠さずに。


「はい、分かりました」


 説明を聞き終えたロゼは特段変わった反応も見せずに、今度はイスナへと向き直った。


「では、イスナ様。いくつかの確認をさせて頂いても?」

「ふん、そんな事をしなくても私は正常よ」

「いいから、ロゼの言う事を聞いてくれ」

「分かったわよ……」


 何故こんな事になったのかはさっぱり分からないが、とにかく俺の言葉は素直に聞いてくれるのだけは確かなようだ。


 ロゼがイスナにいくつかの質問を行いながら、頭部を重点的にその身体を調べている。


 この有能なメイドは医学の知識も持ち合わせているのか、手際よくその心身の確認を済ませていく。


 そして――


「特に異常は見られません」


 普段と変わらない無表情で、はっきりとそう言い切った。


「だから言ったでしょ。私はどこもおかしくないって」

「本当の本当にか?」

「本当の本当の本当によ」

「じゃあ俺は君にとって何なんだ?」

「貴方は私の全てに決まってるでしょ……」


 イスナはそう言いながら、俺の腕に自分の腕を絡めるように抱きついてきた。


 汗に濡れたやわらかい肌の感触が衣服越しに伝わってくる。

 夢魔特有のものなのか、エシュルさんと似たような脳を溶かすような甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 頭がぼんやりとしてくる。


 ……っていかんいかん。


 つい雰囲気に流されそうになるのを振り払い、ロゼに視線で『これでも本当に正常なのか?』と伝える。


「では、おやすみなさいませ」


 それが伝わらなかったのか、それとも伝わった上でやはり問題ないと判断したのか。

 ロゼは俺たちに向かって一礼すると静かに部屋の外へと出ていった。


 そうして部屋には俺と、責任者から正常だというお墨付きを得た異常なイスナが残された。


「それじゃあ、私達も寝ましょうか……」


 イスナはそう言いながら、俺を誘うようにシーツの裾を持ち上げる。


「イスナ……」

「なぁに?」

「とりあえず、お前も自分の部屋に戻れ」

「……はーい」


 そう言うとイスナは驚くほど素直に従って、一切の悩みも無さそうな軽快な足取りで退室していった。


 俺一人が残され、部屋は本来あるべき形に戻った。


 大きく息を吐いて、ベッドに横になる。


 やわらかいマットから、俺のものではない湿り気のひんやりとした冷たさと匂いが伝わってくる。


 目を瞑って、どうかこの短い時間に起こった出来事が妙な夢であって欲しいと祈りながらまどろみに身を任せた。

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