2節「騒動」

「わ、す、すいません」

「すいませんで済んだら警察はいらねぇんだよ抜け作農家が!」

 反射的に謝った店主に鋭い罵声が飛ぶ。

「わ、私は農家では……」

 そう言って顔を上げた店主を見下ろしているのは、土煙色の服を着た男だった。さも不快そうに口を歪めている。周囲にも似たような服を着ている男たちがいて、すぐさま店主を取り囲んでしまう。

 店主は男たちに見覚えがあった。

 忘れようはずもない。

 前に居た市で店主をはじめ、他の店の者にも上納品を求めた暴力の徒だ。

 顔役とは名だけの、力と欲ですべてを牛耳る支配者。

「おお、おめぇか、いいところで会ったなぁ」

 店主の顔を認めると、相手は口を嗜虐的な笑みへと転じさせた。

「こんなところに逃げこんでのうのうと米を売ってたってのか」

「逃げたわけでは――」

 避難しただけ。

 もっとも店主とてそんな言い分が通るわけがないとわかっている。

「どっちも同じことだろうが。逃げたんじゃなかったらなんだっていうんだ。あそこで商売許可を与えてやったのに他のいちに出張とは、ずいぶん良いご身分じゃねえか」

 凄まれて襟をつかみ上げられる。

「俺たちはまだ上納金をもらってないんだぞ」

「お、おとといにち、ち、ちゃんと払った……、じゃないですか」

 冷や汗をだらだらとしたたらせながら口ごもる。

 向かいの老婆は騒ぎが起こってすぐ、売り物を放置して逃げていた。

「ありゃ場所代だ。で、場所を貸した俺らに売り上げに応じた謝礼を払うのは義務だろ」

「そんな無茶な」

 遠巻きに見ている野次馬たちは、それがいちゃもんであると知っている。当局の目に触れぬようにと路地裏に自然発生した市には、商売をする許可をどこかから得る必要はない。ましてや金を納めるべき相手もいない。

 知っていながら誰も止めようとはせずにいさかいを取り巻く。

 下手に助けようとして自分まで巻き込まれるのはごめんだ。

 俺たちにはあの略奪者を追い返す力はない。

 悪いが生贄になってくれ。

 我慢してくれ。

 野次馬の目がそう言っている。

 厄介を持ちこみやがって! と、はっきり告げる目もあった。

「おめぇが払わねぇんなら体で落とし前をつけてもらうしかねぇな」

 男は見せつけるようにやおら小刀を取りだし、店主の目の前で往復させた。

 ぎらぎらとした刃が店主の荒い呼吸を浴びてすぐに曇る。

「わ、わかった! かか、金は払うからその物騒なものをしまってくれないか」

 財布をまるまる差し出す。

 命あっての物種だ。

 男は小刀をしまう代わりに男の襟から手を離した。

 帰って家内に何と言い訳をするのか。

 そんなことを考える余裕はとうに失われていた。

 もはや泣き寝入りをするしかない。

 首領格の男は財布の中を丁寧に改めて、「これはなんだ?」と、中から紙切れを取り出した。書かれた米の価格表を眺めて口角を釣り上げる。

「おい、荷車ごと五俵持って行け」

 命じられた男たちはすぐに俵を担ぎ上げて、店主が積んできた荷車に積み直す。

 荷台に積むなら少し転がせば済むところを、わざわざ持ち上げるのにはもちろん理由がある。一俵四斗、重量にして約十六かん。それぐらいの重さならば軽々と担げる腕力を有しているのだぞと、周囲に誇示し威圧するためだ。

 さすがに店主は食い下がって、

「や、やめてくれぇ……、大事な売り物なんだよ」

「支払いにぐずぐずしてるからだ。二つは延滞料だ。もっと早く払っておきゃ三つですませてやったものを。それにありがたくも一俵を残してやっただろうが」

 男に突き飛ばされた店主は、残った俵に足を引っかけて背中から転んでしまった。

 手下が男に耳打ちして何かを告げる。

 が、その声はとても隠し事を伝えるような大きさではなかった。

 むしろ周囲にもはっきり伝えるかのように、

「大前さん、この市はまだ自警団がないようですぜ。守ってやりますかい?」

 首領格の男、大前は、「そうしてやろう」と、これまた隠す気のない音声でうなずいて部下をけしかける。

「今からこの市は俺たちが取りしきる! 文句はないよな?」

「場所代と売り上げの上納金は全て俺たちに納めてもらう」

 若者たちが威勢よく叫んで、徴用すべく市を回りだした。その数十五、六人。

 たちまち女店主たちの甲高い悲鳴があがった。

 客たちは巻きこまれまいと駆け出して土煙も巻き上がる。

 誰かが当たって、積み上げられた木箱や缶が騒々しい音とともに崩れていき、ひっくり返った笊や編みかごからは商品が転げ落ちた。

 売上金は暴力の徒が見つけ次第に懐におさめる。食べ物の類は腹におさめる。

 さらには逃げようとする者を引っ捕まえて、逃げられないように囲いこむ。

 悪党どもの乱暴はたちまちにして市全体へと広まった。

「聞け! あんたらにも悪い話じゃあない!」

 暴徒の首魁たる大前が胴間声どうまこえを張り上げる。

「これからは俺たちが顔役としてこの市を守ってやると言ってるんだ! その代わりにあんたらは俺たちに金と幾らかの売り物を用心棒代としておさめる。公平じゃないか」

 侵奪しんだつを宣言している間にも、部下たちが「おら、見世物じゃないんだぞ!」と、野次馬を蹴散らしながら散開して市の店主たちの間を順繰りに巡る。

 刃物をちらつかせては、彼らのいう場所代と上納すべき金を、金がなければ商品を、抵抗すればそのどちらも、それぞれ収奪していく。そしてちょっと渋るものがいると刃物を突き付ける。

 そうした光景を大前は満足そうに眺めてから威丈高に叫ぶ。

「俺たちはあの戦争から生きて帰ったんだ。銃弾の雨にさらされ、連合軍の兵隊になぶられる、あの地獄のような戦場からな! 俺たちが徹底抗戦したお陰でこの国は滅びなかった! だけど俺たちがエル・セレティアで戦っている間、帝都にいたお前たちは何をしていた? 貴様らは連合軍に怯えていただけだろうがっ!」

 大前の鋭い視線が飛ぶたびに、市の者たちは目が合わないようにと、さっとまぶたを伏せる。

「戦争が終わった後も、俺たちがこうしてありがたくも守ってやると言っているんだ。何を逆らうのだ。お前たちが生きているのは誰が奮闘したからだ?」

 引き揚げてきた兵士の大半は故郷へ帰らず、帝都に居座って横暴さを発揮しつづける。他の市を支配する暴力もこういう引き揚げ兵が大半だ。住人達は体力、気力共に勝るこれら兵隊崩れに立ち向かう術を持たない。もとよりこの市にいるのは戦場に立たなかった者たちが多い。終戦からまだ一年も経たないいま、ついこの前まで戦っていた兵士に立ち向かう気概などなかった。

 自警団を結成している市場ならば、武器を手にした彼らが駆けつけてくれはしただろうが、そういった戦力もここには置かれていない。全くの無力であった。

「お前らが希望に託して送り出した俺たちは――」

 米売りは呆けた顔で大前たちの身勝手な言い分を聞いていたが、やがて自分が劫奪こうだつされたものの重みが徐々にのしかかってくるのを感じて、だんだんと気が気ではなくなってきた。

 米六表に持ち金全てを足した以上の重み、彼が養うべき家族の人生。

 米も、金もとられた。何度も頭を下げて仕入れた米。飯を買えばそれだけで尽きるような金。どちらも取られた。家内と子供が腹を空かせて待っているというのに……。

 大前の後ろで米売りがゆっくりと立ちあがる。ぶつぶつとつぶやきながら。

 前の市で奪われた時には家族にひもじい思いをさせた。あんなに悲しい家族の顔を見るのはもういやだ。あの時はさんざん後悔した、もう後悔したくない。戦争中は家族のために何もできなかったんだ。こんな時くらい。

 垂れ落ちた冷や汗が地面に黒い跡を作り、米売りに追随する。

「だから俺たちに従えば――」

 大前の口上は中断された。店主が飛びかかったのだ。

「てめぇ! 離せ!」

 腕を振って何度も殴るが、背後から抱きついたまま離れない。

 店主は猛烈な雄たけびで力をこめて大前を押し倒した。

「そんなに抵抗するならもう許さねえぞ!」

 強く腰を打った大前は逆上して、小刀を突き上げた。

 がむしゃらに暴れているだけの相手は回避する術を持たない。突如として胸に感じた強烈な違和感で米売りは我に返る。斜め下から肺臓に異物が突き刺さっている。

 大前はいやな手応えを感じてずいぶんと驚いた顔つきをしたが、すぐに「畜生!」と叫んで、慌てて小刀を引き抜いた。

「い……、たい、痛――」

 米売りがきこんで大量に吐血する。傷口からみるみるうちに血があふれだす。

 大前は深呼吸をしてから、周りに見せつけるように血の付いた刃を突き上げた。

「よく見ろ! 逆らうとお前たちも同じ目にあ、遭わせるぞ。逃げても同じだ。追いかけて捕まえる! こいつも他の市から逃げてきてこのざまよ」

 それから血の付いた得物をぶんぶんと振ってから、米売りの袖で血をぬぐう。汚らわしいものをぬぐうかのように。

「お前たち! こいつを痛めつけてやれ!」

 命じられるままに部下たちが順繰りに店主を蹴りつけていく。

 むろん誰も止めようとする者はいない。それどころか、逆らったために兵隊崩れの大前たちを怒らせてしまった米売りに対する怒りを覚える者さえいた。

 余計なことをしやがって。

 俺たちがあとでひどい目に遭ったらどうしてくれる。

 お前は死ねばそれで終わりだけど俺たちは明日があるんだぞ。

 身近な怒りの矛先はとうてい勝てそうにない強者にではなく、虐げられる弱者へと向く。

 米売りがみみずのように蠕動ぜんどうする。

『またお前たちに何も食べさせられそうにないな――』

 彼の意識はそこで途絶えた。


   *    *


「――おい! あんた! 目を覚ましなってよ!」

 誰かが呼びかけている。重いまぶたをあげるだけでも、米売りにはひどい重労働に感じられる。呼吸もそうだ。吸って吐く。それだけで尽きない疲労がこみあげてくる。

「あ、ああ、道重、さん?」

「水を持ってきた」

 道重は水筒を米売りの口に当てて傾ける。しかし店主の口には一滴も入らず、全て下顎を伝って首筋へと流れていく。

「しっかりしてくれよ。飲むんだよ」

「飲むの、も、しんどいん、だ」

 店主は息をしぼりだすようにして答える。一緒に吐血も。

「いま包帯と消毒薬を持ってこさせてる。だからしっかりと気を張ってくれ」

 店主は首を振り、「もう、だめだ」とつぶやく。体は小刻みに震えている。

「だめなもんかよ、弱気になるといけるもんもいけないぞ!」

「いや、もう、体の感覚がない、米も、金もとられ、た……」

「また働いて取り返そう」

 道重の励ましには答えず、「干し、芋」とうめく。

「干し芋か? いくらでもやるよ。全部やるから、気を張っていてくれ」

「あれ……、子、どもに、ヤスオに、やって……、くれ」

 言いきると同時に店主の全身の力が一斉に抜けた。もたげていた首もだらりと緩み、こうべは垂れる。体の張りという張りも失われる。道重は店主の体温が急激に損なわれていくのを感じた。

「おい! だんな! おい!」

 何度呼びかけても、何度揺すっても、何度頬をぶっても、

「あんたが届けなきゃ息子さんも困るだろ! おい!」

 店主はもう目覚めない。

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