011 二人旅(2)

 三日目の夜を小川の畔で過ごした翌朝。地平から顔を覗かせる太陽と共に目を覚ました五郎太は、清涼な朝の気を受けながら装束を脱ぎ捨て、川に入った。


 水は充分に冷たかった。五郎太は荷縄を丸めて川の水に濡らし、それを身体に叩きつけるようにして垢離をとってゆく。修験者の荒行にも似たこの五郎太の行水の仕様は平時でも変わらない。痛いには痛い。だがこうしなければどうにも身体を清めたという気分にならないのである。


「……」


 一頻り行水したところで五郎太は川からあがろうとし――けれども何となく水の中に立ち止まった。


 水面に目を落とし、そこに己の顔が映っているのを見た。とりとめなく歪むその顔を眺めながら、今更のように五郎太は己のあるじ――明智日向守光秀様横死の経緯いきさつについて考え始めた。


 遂に馳せ参じることが叶わなかった山崎は天王山での戦……だが思考はそれよりもずっと前に遡る。


 本能寺に仮宿する右大将様――大殿おおとの織田信長様をお屋形様が討ち滅ぼしたという夜。そのときのお屋形様のお顔が、五郎太にはどうしても思い浮かばない。川面に映る己の顔のごとく、ひとつに定まることなくぐにゃぐにゃと歪んで見えるのである。


 ……お屋形様直々のお指図があってのこととはいえ、お傍を離れていたことが悔やまれる。お指図に背いてでも俺はその場所にいるべきだった。たとえそれで死ぬことになっていたとしても、そのときのお屋形様のお顔をこのまなこに映してさえいれば、こんな出口のない堂々巡りの中へと彷徨い込むことはなかったのだ――


「――む」


 背中に小さな水音を聞き、五郎太は反射的に振り返った。


 川べりに丁度目隠しのように立つ大岩の向こう側に、五郎太と同じように素裸となったクリスが水に入ろうとしているのが見えた。


 五郎太がクリスの裸身を目にするのはこれが二度目である。生まれたての陽の光を受けた真白な身体が、小屋の中で見たものとは違う瑞々しい色香をもって五郎太の目を射た。


 我知らず凝視した。たなごころで汲まれた水を浴び、きらきらしく輝く滴がしたたるその嫋やかな女体に、それがクリスのものであることも忘れ、五郎太は思わず唾を飲んだ。


「……っ!」


 ――と、ようやく五郎太の視線に気づいたものとみえるクリスが弾かれたように両手で前を隠した。だがすぐに隠すのをやめ、ばつが悪そうに頭を掻いて二度、三度と水を浴びた。そうして鋭い目で五郎太を睨みつけたあと、今度は腰に手をあて己の裸を見せつけるように五郎太へ向き直った。


「見たいんならこっち来てじっくり見ろよ」


 白日のもとにさらけ出された眩いばかりの女体に、五郎太はたまらず目をそらした。


「男の裸を見る趣味はない」


「どうだかな。……ったく、朝だと思って油断したぜ。あんな獣じみた目で見られてたんじゃ水浴びもできやしねえ」


 そう言って小さく鼻を鳴らすと、クリスは水浴びに戻った。だがふと思い出したように自分の乳に触れ、その柔らかさを確かめるように軽く揉んでみせた。


「……去年まではこんなにデカくなかったんだけどな」


 独り言のようなその呟きに、五郎太を挑発するような響きはなかった。その代わり、まるで拾ってきた仔犬が熊にでもなってしまったかのような、どうすればいいかわからないといった困惑が滲んでいた。


「胸も尻も、気がついたらこんなに膨らんじまってよ、隠すのがどんどん難しくなってきてる。オマエが黙っててくれたってバレんのは時間の問題だろうな」


 そう言って瞼を伏せるクリスの声には、どことなく儚げな趣があった。


 なぜ隠し立てしているのか――と五郎太は聞かない。クリスの口振りから察するに、男と偽っているのは自身の望みではないものとみえる。となれば、それはお家がらみの事情の他あり得まい。


 お家の事情とあらば、口を挟むことなど五郎太には思いも寄らない。それに聞かずとも大方のところはわかる。嫡男の問題だ。嫡男が得られず苦労している家は少なくない。羽柴筑前守のところがまさにそれで、いずれ猶子を取ることになるだろうと専らの噂であった。


 姫であるものを偽って嫡男に仕立てるというのはさすがに聞いたことがないが、有り得ない話ではない。だがもちろん、それは五郎太の生きる世の埒外で繰り広げられる、いわば雲の上の出来事に相違ない。そんな雲の上の出来事を暴き立てようとする思いは、五郎太には毛頭ないのである。


 だが沈黙して川の中に佇む五郎太をどうとったのか、クリスはふっと息をついて五郎太に背を向け、また水を使い始めた。


「なんも聞かないんだな、オマエは」

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