004 物ノ怪(4)

 充分に時間を置いた後、五郎太は馬を降り、もはや動かない物ノ怪の傍らに立った。そして右手で合掌の半分をつくり、瞑目してしばしの黙祷を捧げた。一騎打ちで相手を葬った際、五郎太が欠かすことのない戦士の礼である。


 恐ろしい敵だった、と今にして思う。もちろん、見たことも聞いたこともないこの物ノ怪がいったい何物であったのかという疑念は尽きない。だが五郎太にとってはこれが何物であったかよりも、類い希な強敵であったという事実の方が大きかった。


 ……十中九まで負けていた。勝ちを拾ったのは僥倖に近い。予め鉄砲に弾を込めていなければあそこで隙をつくれなかった。槍の鎌が折れていなければあそこまで深く突き刺さりはしなかった。物ノ怪の頭蓋の骨が堅固でなければ、力が並外れていなければ、物ノ怪自身をしてその脳味噌を掻きまわしめることはかなわなかった。


 持てる材料をすべて出し尽くしての勝利……。そこでようやく、五郎太は自分の足元に折れた鎌――摩利支天だったものの残骸が落ちていることに気づいて、それを拾い上げた。


「……」


 物ノ怪の骸に近づき、槍を引き抜いた。一振りして血を払い、太陽の光にかざして見る。……やはり鎌は折れていた。そればかりか化物の怪力で押し下げられたためだろう、樫でできた柄も大きく曲がり、半ば折れかかっている。


 ……お屋形様に賜ってより戦場では常に共にあった皆朱の槍。五郎太にとってもはや身体の一部にさえなっていた愛槍との日々が、濁流のように五郎太の脳裏を駆け抜けていった。それはとりもなおさず、今日と同じように五郎太が槍によって命を救われ続けた日々の想い出でもあった。


「……俺には過ぎた槍であったわ」


 壊れた槍を眺めながら、五郎太はしみじみと呟いた。別の柄にすげ替えることなど造作もない。だが折られた鎌を元通りにするのは難しいだろう。着け直したところで少し力がかかればまた今日のように折れてしまう。鉄火にしていちから鍛え直さねば使い物にはなるまい。


 ……すなわち、摩利支天は今日、死んだのだ。あの物ノ怪との死闘における唯一の犠牲にして、最大の功労者であると言える。そこで傍らまで近づいてきていた北斗が不平そうにヒヒンと鳴いた。


「これはしたり。そなたも功労者であったな」


 そう言って五郎太は懐から塩の塊を取り出し、それを馬に舐めさせた。


 事実、さきほどの戦いでの北斗の働きは甚大だった。五郎太もそうだが、北斗も滝のように汗をかいている。塩だけでなく水も飲ませてやりたい。そう思って水場がないか辺りを見回した。だがそれらしいものはなく、代わりに夥しい骸が五郎太の目にとまった。


 五十人……いや百人はいようか。全員こちらに頭を向け倒れている。これは逃げた者は一人もいないということだ。甲斐の信玄公を相手に浜松の殿様が一敗地にまみれた戦――三方原の戦がそうであったという。完膚無きまでに敗れはしたが、その戦によって三河の武士たちは比類なき勇猛ぶりを天下に示したのだ。


 大地に横たわる兵たちが守ろうとしたもの――同じように倒れ伏したままの男に目をやる。一文字に切り裂かれた背の傷からは血の浸みが広がっており、決して浅手ではないようだ。


「……乗りかかった舟、か」


 介抱する義理はない。このまま立ち去ってしまうことも考えた。だが、兵たちの見事な死に様が五郎太の心を動かした。……そう、出来得るなら自分も彼らのように死にたかったのだ。


 彼らの守ろうとしたこの男を生かすことがせめてもの手向けであろうと五郎太は思った。倒れている男に近づき、脈があることを確かめる――大丈夫、まだ生きている。二度三度と頬を張ったが男は目を覚まさなかった。


 五郎太は仕方なくその身体を担ぎ上げ、北斗の背に乗せた。そしてどこか男を介抱できるような場所を探して、戦場をあとにした。

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