第5話

(……まあそれはそれとして)

 目下の問題は先ほどの一件だった。別に何か下心があってあんな行動に出たわけではないとはいえ、恥ずかしくてもう顔向けできない気がする。あの車両にだって、もう乗れない。私は音を立てないように意識して、大きくため息をついた。

(さよなら私の目の保養……!)

 私は地下鉄に揺られながら、頭の中で勝手に感傷的な別れを告げた。雨の日だし、傘が役に立ったことは間違いないと思うから、最後に少しだけあの人の役に立てたんだ、と自分を慰めながら、私は職場に向かった。仕事は待ってくれない。



 翌朝。私は迷ったけれど、一つ手前の車両に乗ることにした。昨日の今日で、あの同じ車両に乗る勇気はさすがに持てなかった。

 次の停車駅に着いたけれど、ホームにあの人がいたかはわからなかった。少なくとも、近くに乗ってきてはいない。私の中では、ほっとした気持ちと、残念な気持ちがないまぜになった。


 けれど人間の──あるいは私の──順応性というのは驚くべきもので、一度そうやって避けてしまえば、それ以降はずっとそれが当たり前になってしまったのだ。

(これで、いいよね……)

 ストーカーだと思われる心配もないし。繰り返すけど私はビニール傘が好きじゃないし。一応新品だから、もらって悪いものでもないだろうし。ただ私の目の保養がなくなっただけで。

 私は、バッグから文庫本を取り出し、物語の世界へと没頭した。

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