第33話 プロポーズ

 勇次郎が藍子と再び一緒に暮らしたいと思っていた頃、清川家にも変化があった。退院してから半年が過ぎていたこの頃、藍子の体調も悪化することなく、相変わらず父とふたりで家事をこなし、平和な毎日を過ごしていた。


琉生は相変わらず、まず清川家に帰宅し、時には夕飯を一緒にするという生活だ。すっかりこのパターンが定番となり、藍子も穏やかな気持ちが続いていた。気持ちが穏やかだと体調も急激には悪化しないものなのかもしれない。


 そんな平和な毎日を過ごしていたある日の夜。

いつものように琉生が清川家に帰ってくると、


「藍子、夕飯のあと、ちょっと話があるんだけど、体調はどうだ?」


琉生は藍子に尋ねた。


「体調は大丈夫だよ。夕飯のあとじゃないとダメ?夕飯温めてるうちに話せないこと?」


藍子は、夕飯として作ったカレイの煮つけと、副菜の煮物に火を入れながら聞いた。


「できれば、ゆっくりしてからの方がいい」


今日の琉生の口調はいつものお調子者とは違っていた。藍子は、何かがおかしいと感じながらもそれを聞くことはせず、


「そっか。じゃあ、夕飯のあとね」


とだけ答えた。それに対して琉生からの返事はなく、ふと見ると琉生はいつものように洗面所で手洗いうがいをした後、仏間へ行き、


「おばさん、ゆう姉、ただいま」


と仏壇に向かって手を合わせた。これもいつもの光景だ。行動はいつもと変わらないが、何かが違うと藍子は感じていた。悪いことじゃなければいいんだけどと、藍子は急に不安になっていた。


 琉生に気付いた父親が、2階の自室から降りてきた。


「琉生、おかえり」

「ただいま」


この会話もいつもと同じだ。ならば、何が違うのだろうかと藍子は考えたが、やはり分からない。答えは夕飯後に持ち越しなのだろう。


 違和感の中、夕飯の支度を3人で済ませ、食卓に並べると


「いただきます」


とほぼ同時に3人がいい、夕飯を食べ始めた。夕飯の時は、いつも琉生が会社であった面白いことを教えてくれるのだが、今夜は、琉生は無口だった。時々、


「今日のカレイの味は、俺好みでちょうどいい」

「厚揚げ、味が染みてて旨いなぁ」


と食事についての感想を言うだけだ。それにはさすがに藍子の父親も違和感を覚えたのだろう。


「琉生?どうした?今日はおとなしいな」


と藍子も聞きたいと思っていた質問を琉生にぶつけた。その言葉を聞いた琉生は、一瞬ご飯を喉に詰まらせそうになったが、


「俺だっておとなしい時はある!」


といつもの口調で言った。いや、正確には調言った。どうも変だ。夕飯のあと、どんな話をしようとしているのだろうかと、藍子は必死に考えたが、思いつくはずもなく。


 ほどなくして、3人は夕飯を食べ終え、片付けをした。すべての片付けが終わったあと、


「お父さん、ちょっと藍子と話があるんだけど、あの…ちょっとそこに居られると…その…」


珍しく琉生が口ごもっている。これには、父親も一瞬驚いたが、何かを察したかのように、


「そうか。じゃあ父さん、風呂に入ってこようかな」


というと、その場から離れた。


「何?お父さんに聞かれるとまずいことなの?」


藍子は、琉生に尋ねた。何となく父親を邪魔にされたことが気に入らなかったのだ。藍子の言い方がきつかったのか、


「まずいっていうか…てか、藍子、怒ってんじゃん」


どうもテンポが悪い琉生の一言一言にイラっとしていた藍子は、


「琉生が、ハッキリしないからでしょ?何?そんなに言いにくいことなの?」


さっきよりさらに口調がきつくなっていた。そんな藍子を見ながら琉生は、


「言いにくいよ。タイミングっていうか、心の準備っていうか、そういうのが必要なことだからな」


今度は、少しいつもの琉生らしく言ったが、それでもまだ普段の琉生ではなかった。藍子は、琉生が何を言い出すのか、相変わらずイライラしながら待った。すると、


「なぁ、藍子。俺たち、結婚しないか?…じゃない、俺と結婚してくれませんか?」


琉生の口から、藍子がまったく予想していない言葉たちが飛び出してきた。その言葉を聞いた藍子は、しばらく固まって動けなかった。もちろん、言葉も出ない。


 どれくらい、藍子は黙ったままだっただろうか?琉生にとってはかなり長く感じたが、おそらく時間にして数秒というところだろう。藍子から何か言われるまで、琉生はじっと藍子を見つめていた。


藍子の視線は、どこを見ているのか分からない、視点が合っていない状態だった。そして、ゆっくりとベッドに向かって歩いていき、ベッドのリクライニングに寄りかかった。その様子を琉生はずっと目で追ったが、まだ藍子から言葉が出てこない。


「藍子?」


我慢が限界だったのだろう。琉生は、藍子の名前だけ呼んでみた。しかし、返事も出ないという様子だった藍子を見て、


「なぁ、藍子。俺、お前が退院してからずっと考えてた。これからずっと藍子を支えたい。毎日ここに帰ってきて、自分の家に帰るんじゃなくて、ここで一緒に暮らしたい。藍子と結婚したいってずっと思ってた。あとは、いつ伝えようかってタイミングを考えてた」


琉生は、藍子のベッドの横まで歩いていきながら、そう言った後、ベッドの横にひざまずいた。藍子は、その言葉もしっかり頭に入ってきていた。しかし、琉生がずっとそんなことを考えていたことには、まったく気付いていなかったものだから、どう返事をすればいいのかまったく頭に浮かばなかったのだ。


 しばらくして、ようやく言葉を発することができた。


「琉生。琉生がそんなふうに思っていたなんて全然気付かなかった」


その一言を発したあと、数回深呼吸をすると、


「ありがとう」


と言った。その言葉を聞いた琉生は、


「じゃあ…オッケ…」

「でもね。それは受けられないよ」


琉生の喜びの顔と言葉をかき消すように藍子は言った。


「なんで…」


琉生の言葉は、今にも消えそうなくらい小さな声だった。そんな琉生に、


「私は、回復する病気じゃないんだよ。確実に死に向かってるんだよ。そんな私にプロポーズとか、琉生、どうかしてるよ」


藍子は静かに伝えた。


「人間誰だって死に向かってるよ。俺たちもう47だぜ。人生100年時代とか言われてるけど、100歳まで生きてる人の方がまだ少ない。人の死なんて誰にも分からないだろ?だったら、残りの人生、一緒に過ごしてほしい」


琉生は、さっきまでの自信なさげなトーンではなく、少し大きめに言った。


「そうじゃないでしょ?確かに人の死なんて分からない。けど、確実に死が近づいている私と、わざわざ結婚しようなんて思わないでほしかった」


藍子は、相変わらず静かに伝えた。その口調は、藍子が何か覚悟を決めた時に、その決心が揺らがないように平常心を保とうとした時のトーンだ。琉生は、こうなったら何を言っても無駄だということも分かっていた。


 でも、今回ばかりは譲れない気持ちがあった。


「わざわざじゃない。ずっと結婚したかった。なんなら、藍子があいつと結婚してからだって、いつか戻ってきたらプロポーズするって思ってた。その気持ちは、病気になったって変わらない。例えば、余命があとわずかであっても、俺は藍子の夫として藍子を看取りたい」


琉生も静かなトーンで伝えてきた。


「ごめん。琉生の気持ちに応えることはできない。これは譲れない。もし、納得できないなら、明日からここに帰ってくるのはやめてもらえるかな?お互い、辛くなる。私は、今の関係でも琉生が支えだよ。けど、この関係のままじゃダメだっていうなら、今後は支えはいらない」


藍子の口から、究極の選択肢が飛び出した。琉生は、「その選択肢は反則だ」と思いながらも反論できず、黙り込んでしまった。


 しばらく沈黙が続いた。そして、琉生は、


「…分かった。プロポーズは、なしだ。今の関係を続けよう」


と、諦めたような口調で、声に力なく言った。


「ありがとう」


藍子は、短く礼を伝えた。

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