第13話 見つかった病魔と今後の生活

 意識を取り戻した私の目に映ったものは、見覚えのない天井だった。真っ白な天井と見慣れないカーテンレール。腕には点滴。そして、遠い昔に聞いたことがある規則正しい電子音。この音を聞いたのは、母親が入院していた時の病院だ。なぜそんな音が今聞こえるのか理解できなかった私に、


「気がつきましたね。今、ご主人を呼んできますのでお待ちくださいね」


物腰のやわらかい声が耳に届いた。私は声の方に目だけをやった。そこには、優しそうな看護師の姿があった。


「あの…ここは病院なんですか?」


私はそう聞こうとしたが、声になっていなかった。看護師は、そのまま私のそばを離れていった。しばらくして、勇次郎がゆっくりと入ってきた。その姿が近づくにつれ、規則正しく聞こえていた電子音は急に速度を早めた。その音に反応して看護師が再び私のそばに来て、何かを調節しているように見えた。速度を早めた電子音は、私の鼓動と連動しているのだと気がつくのにそう時間はかからなかった。


「少し呼吸が乱れていますので、長くは話せませんよ」


看護師は勇次郎に向かってそう言った。勇次郎が小さく頷くと、それを確認した看護師は一旦部屋から出て行った。ふたりきりにしないでほしいという私の願いは、声にも出せず誰にも気付かれることなく放置された。


 勇次郎は、ベッドの横にあった椅子に座ると、


「勇哉はあと2年で大学卒業だ。就職も問題ないだろう。少し早いが、お前を自由にしてやることにした。退院したら、自分の実家に戻れるように手配しておく」


と言った。私は何を言われているのかまったく理解できなかったが、何の説明もなく勇次郎は続けた。


「治療にかかる金は俺の方で支払う。明日にでも担当医から説明があるだろうから、今後の鎌倉家のことは何も心配しなくていい」


とにかく何を言われているのか理解したかったが、淡々と、感情も感じられない勇次郎の言葉からは何も理解できないし、不可解でしかなかった。退院したら実家に戻るとはどういうことなのだろう?鎌倉家を心配しなくていいとはどういうことなのだろう?


 もっと詳しく聞きたいと思ったが、相変わらず声が出ない。なぜ声が出ないのかも理解できないが、呼吸をするだけでもなんだか息苦しかったので、無理に声を出そうという気にはなれなかった。ただ、勇次郎の方をジッと見ている私に対して、勇次郎は一度も目を合わせなかったのが気になった。


**********


 翌日、6時くらいだろうか?昨夜とは別の看護師が、

「検温ですよ」

とベッドの横に来て言った。私は体温計を受け取ろうとしたが、

「あ、今って、脇で測るものではないんです。非接触タイプといっておでこに近づけるだけで測れちゃうんです。便利ですよねぇ」

と穏やかで優しい声で説明してくれた。そして、もう何年も見ていなかった人の笑顔を昨夜と今朝とこんな短時間でふたりも見られたことに感激している自分がいた。


私も看護師に笑顔で応えたかったが、20数年の歳月は私から笑顔さえ忘れさせてしまったようだ。自分でも笑顔を作ろうとして引きつる顔の筋肉がハッキリと分かった。そんな私に気付かなかったのか、あるいは気付かないふりをしてくれたのかは不明だが、私の表情には触れず、

「まだ少し熱がありますね。お昼過ぎに先生から病状説明がありますので、朝食のあと、少しお休みになるといいですよ」

と相変わらず優しい笑顔が、そこにはあった。私はただ頷くだけ。


 8時少し前に朝食が運ばれてきた。

朝食と言っても、トレイの中には粒がかろうじて見える程度のお粥と具なしの味噌汁。それと離乳食かと思われるようなペースト状の緑色の何かだけ。おそらくほうれん草のペーストだろう。それとバランス栄養補助飲料。


そういえば、昨夜から私は一言も発していない。発していないというより声が出ない。ここに入院していることと、声が出ないことは何か関係があるのだろうか?現段階では自分がどうして入院しているのか、どうして声が出ないのか、どうして息苦しいのか、何一つ理解できていない。こんな状態で昼過ぎまで待たなくてはいけないのは、このことが気になって寝てなんていられないことだ。そう思っていたが、朝食を摂り終わると、自然に睡魔に襲われ私はそのまま眠ってしまったようだ。


「…さん。鎌倉さん」


遠くで男性の声がした。私は少しずつその声に近づいて行った。正確には近づいて行ったわけではなく眠りから覚めていっただけだったのだが。目を開けたすぐそばに中肉で、身長が2メートルはあるのではないかと思うほど長身の男性が立っていた。


「鎌倉さん。主治医の愛川といいます。昨夜のことは覚えていらっしゃいますか?」


長身の男性は、藍子の主治医だと言った。藍子は主治医に向かって黙って首を横に振った。


「鎌倉さん、少し、肺の機能が弱っているようなんです。呼吸がしづらいのも、声が出ないのもそのせいですが、もう少し詳しく検査をしたのちに治療方針などを決めていきたいと思っています」


愛川の説明には、どこか曖昧さもあった。結局、なぜ私は昨夜、勇次郎に実家に帰ってもいいと言われたのか、納得できる説明はなかった。まぁ、主治医に、私が勇次郎に言われた言葉の意味を説明できるわけではないのだが。ただ、恐らく治らない病気なのだろうということは、なんとなく想像ができた。治療で治るものなら、勇次郎があんなことをいうはずがないと思ったからだ。


「少し、長期間の治療が必要となりますので、一緒に頑張っていきましょう」


愛川は一緒に頑張る気なんてないであろう真顔のまま言うと、私の返事など待たずに病室から出て行った。


〈これじゃ、何のことだかまったく分からない〉


と私は思った。

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