ぼくのカウンターがゼロに宣言された

つばきとよたろう

第1話 存在しない猫と女の子

 物々しいサイレンが、高いビルの立ち並ぶ町中に鳴り響く。ぼくのカウンターがゼロに宣言された。これで、ぼくに向けられた敵意は、全て感じる前に跳ね返される。その代償として、ぼくの目にする世界は警告灯みたいに、いつも真っ赤に染まる。落涙した血の涙が、ぼくの足元を濡らす。バタバタと目の前で、死んだように人が倒れていく。血の一滴から、一匹の醜い昆虫が生まれると、勢いよく逃げ出す。やがてその虫は、町中を支配するように飛び回る。

 不快でしょうがない。これは、ぼくのせいなのか? それとも、誰かのせいだと言うのか?

「令! 令、しっかりしろ!」

 令とは、誰か? いつもそこで、目が覚まさせられる。いけない。今日も遅刻しそうだ。

「弁当、忘れないでよ」

「うん、ちゃんと持った。行ってきます」

 母親の声が、高層マンションの玄関に立つ、ぼくを送り出す。

 早朝の空は、まるで悪夢の続きのように焼け付いている。あれは太陽じゃない。今、太陽は完全に分厚い雲に隠れている。暗い空を照らすほどの、学校から放たれた光だ。ぼくは顔をしかめて、早足になった。

 四重に交差した双子の電信柱と不機嫌な信号灯、どこまでも終わらないコンクリート塀と高層道路の巨大な高架橋、剪定されない邸宅の庭木とビル屋上の繁茂した樹木、ボコボコにへこんだ郵便受けと壊れた裸婦の銅像、門扉に眠る獰猛な犬と公園を徘徊する鳩の群れ、知らない振りする四つ辻のカーブミラーと黒い防犯カメラが、無意識に視界に入る。ぼくが毎日、目にする景色は普段と変わらない。海岸沿いの小さな町の中に、近代的な建物がひしめき合っている。それも過去の栄光のように、どこもかしこも錆び付いて見える。ぼくは、その町外れにある港丘高校に通う。

 最悪だ。駐車禁止の標識に、一時停止の白線へ来て、そこを通らなければ、校門を潜れない。分かっているのに、わざと通せん坊している。不気味に赤く色付いた家並みの向こうに、もう尖塔がそびえ立つ校舎が見える。学生鞄を提げた生徒も大勢歩いている。あとは形ばかりの校門を擦り抜け、教室へ向かうだけだ。それだけなのに、登校早々嫌な奴らに出会った。鞄のあちこちにステッカーを貼って、レーシングカーみたいに光らせている。落ちこぼれの生徒なら、ぺしゃんこにしても当然という嫌みな顔をしている。

 殴りたければ、幾らでも殴れ! 卑劣な奴らだ。のろのろ歩いて、こっちを振り向きもしない。カタツムリの行進みたいに、丸めた背中を見せている。警告したはずだと、言わんばかりに露骨な態度をする。校門が近づく。まだ道のりは長い。予鈴が鳴って、行き成り走りだした。何だか、この世界から完全に置き去りにされた気分になった。

「そこの君」

 誰かが、ぼくを呼び止めた。聞き逃しそうな女の子の声だ。道には誰も居ない。代わりに通学路に沿った長いコンクリート塀の上に、貧相な黒猫を見つける。この猫がしゃべったのかと首を傾げる。黒猫は、暢気に散歩しているみたいだ。それとも、朝帰りだったのか。ぼくは、ちょっと悪戯してみたくなった。

「触っては、駄目!」

 また声がして、その声に驚いてか、黒猫が突然とぼくの方に飛び込んできた。ぶつかると思ったときには、黒猫の姿を見失っていた。身構えたままの無様な格好で、目だけ動かす。

「どこ行ったんだ? あいつ」

 足跡だけが、どこかへ歩いて行く。

「何だこれ?」

 振り向いた所に、黒猫を見つけた。黒猫は警戒心も無く、ぼくをからかうように大きな欠伸をしている。

「悪かったよ。悪気は無かったんだ。ほら行けよ。おっと遅刻だ、遅刻!」

 ぼくは黒猫をじゃけんにし、慌てて校門へ急いだ。女の子のことは、すっかり忘れていた。

 遅刻の理由なんて、聞かれるはずがない。堂々と教室に入って、窓の席に着く。ひそひそ話や悪口なんて、聞く耳を持たない。教科書を手にした古文の富山が、こちらを一瞥し、眉一つ動かさずに再び教科書を覗く。この間も、富山の声は途切れなかった。ぼくは鞄の中から、ゆっくりと教科書を取り出した。不機嫌な顔をしても、誰も気にしない。まるでそこに存在しないみたいに、みんな思っている。それも残りわずかだ。この教室ともおさらばだ。それを考えると、清々する。ぼくは、直に落ちこぼれのクラスに入れられる。そこでどんな仕打ちが、待ち構えているのか想像も付かない。あそこに一度落ちれば、二度と抜け出せないという噂だ。

 何だこれ? 泥だらけじゃないか。ぼくは、汚れた机の上に眉をひそめた。小動物の足跡が歩いている。ぼくの胸元で、猫が鳴いてドキリとした。さっきの黒猫がこっちを見上げている。

「何だ、付いて来ちゃったのか? 駄目だよ。ここ学校なんだからね」

 教室が、急に騒がしくなった。ぼくの上擦った声じゃない。猫の鳴き声に、みんなが振り向いた。

「えっ、なに? なになに!」

「猫だ! しかも、黒猫。小さいけどね。多分、栄養失調だ」

「クロネコ?」

「どこから入り込んだんだろう?」

「おい、騒がしいぞ。どうした?」

 富山は黒板の手を、乱暴に閉めた扉のように止め、険しい顔で振り返った。黒猫は、ぼくの机から身軽に飛び降り、後ろの扉へ走った。扉のわずかに開いた隙間から、消えるように廊下へ出て行った。

「誰だ? 答えろ!」

 富山は黒猫を目で追って、その後に怒鳴った。教室中の無言の視線が、ぼくだと訴えている。

「ははは、君かね。ああ、ちょっと待った。忘れるところだった。後で職員室に来なさい。教頭先生がお呼びだ。君に話があるそうだ。分かったね。それじゃあ、授業を再開する」

 富山は意地悪そうに、ぼくへ告げ、背を向けると、また板書し始めた。

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