第22話【冬風の呼び鈴】

 木枯らしに消えた少女のことは、一旦置いておく。

 それよりも、不意に自分の健康状態が気になりはじめた俺である。空耳だって二度続けば、なんとなく偶然だとも思えなくなるじゃないか。

 おまけに今度は幻覚か? いや、それはハルヒが当て推量で言っているだけに違いない。

「ねえ、ちょっとキョン——」

 単に疲れが溜まっているだけだろうか。成績低空飛行の俺が、いよいよ学期末テストに対して本格的な焦りを感じてきたとでもいうのか。

「ちょっと、聞いてんの?」

 なにげなしに遠くの空を見やれば、曇天の奥に夕陽が控えているであろう趣を感じさせる空だった。先ほどまでの灰色一色よりも幾分か気分が好い。目の前の街並みはこれから宵闇に覆われていくことだろう。だがいまの俺には、そんな郷愁に浸る精神的な余裕もさほど無い。日がな縦横無尽のハルヒに振り回され、それに加えての試験勉強。脳みそが茹だるような疲弊を感じる。さらに、俺を包むこの冷たい風が、どことなく内心の不安を掻き立てている。

「ねぇ、キョン!」

 ——そう、そのとき俺の後頭部に風が。

「何すっとぼけてんのよ、このボケッ!」

 空を切るハルヒの鞄が、俺の頭にクリティカルヒットした。実にいい音が周囲に響く。……と、どうやら他人事じゃないらしい。

「痛いじゃないか。何だ」

 そう言ってめんどくさがりながら、例のごとくハルヒの方を見た俺だ。すると不思議なことに、奴はなぜか口を開けっ放しにしたままきょとんとしていた。

「鞄で殴りつけといて、なんだその顔は」

「え、いや……あ、あんた、あたしの発言を無視するなんていい度胸してるじゃない! もう一回同じことしたら罰ゲームだからね!」

 すぐに元の応接態度を思い出したようで、さっそく罰ゲームなんてろくでもない単語が出てきた。

「無茶言うな。いくら俺でも、お前の一挙手一投足に気を配ったりできるか」

「なに言ってんのよ。無理を無理と思うから無理になるのよ。できると思えばできるのよ!」

 なにやらブラック企業みたいなことを言っている。できてもやらんわ。

 ただ、ハルヒが笑っていているのを見ていると、なぜだかわからないが不思議と気が楽になった。そのせいか俺は、わかったよと肯定の意味の言葉を生返事ながらハルヒに返す。ハルヒはやはりいつも通りだ。さっきのどこか腑抜けた表情は、気のせいなかなにかだろう。

 そうした俺とハルヒのとりとめのないやり取りに対し、

「ところで涼宮さん」

 と、古泉がやたら爽やかな笑みと口調で割って入ってきた。

「なにかしら」

「ひとつ、ご提案があるのですが」

 無駄に畏まった態度で申し出る。

「いいわ。言ってみて」

 古泉はハルヒの言葉に合わせて仰々しく一礼をした。

「恐縮です。今日は寒さも一段と強いですし、もしよろしければ皆さんで、いつもの喫茶店に参りませんか?」

 古泉から働きかけるのは珍しいな。これから陽が昇るんじゃないか。

 ハルヒはその提案に深く頷き、

「あたしはいいけどっ、みんなはどう?」

 柄にもなく全員の意向を聞こうとしていた。いつものメンバーに加えて、国木田と鶴屋さんがいるからだろうか。ハルヒも気遣いを覚えてきたのかもしれない。

「キョン。あんたに選択肢はないから」

 ああそうかよ。

 ところで発案者の古泉は、まるで俺たちを柔らかく言いくるめるように、

「今回は僕が御馳走しましょう。ですから、ぜひ」

 と二の矢を放っていた。

 なんだ? 普段からこいつの厄介事に付き合わされている俺には、古泉のこの振る舞いにかすかな気ぜわしさを感じた。それはほんのわずかなことで、気のせいとも思えるような程度でしかなかったが。これにはハルヒも驚いていた。

「え、古泉くんが? いいの?」

「もちろんです。僕が言い出しっぺですからね。これを機に、SOS団の普段の活動の一端を、顧問殿と臨時教官殿に知ってもらえたらと」

 ——本音か? それ。

 脇で訝しむ俺はさておき、古泉の提案を受容したハルヒは、奴の美辞麗句になんともご満悦らしかった。

「さっすが副団長ね!」

 ハルヒは両手をパチンと叩いて炸裂弾が弾けるような笑みを繰りだす。

「団員としてのその気配り! 古泉くんの爪の垢をキョンに一気飲みさせたいものだわ!」

 古泉の爪の垢なんて煎じても飲みたくないぜ。


 それから、古泉はさっそく俺達をいつもの喫茶店の中へと促しはじめた。国木田が「いいのかい?」と半ば困惑気味に尋ねるも、背中を優しく押す形で店の中へと入れる。店内に入ると、入り口の呼び鈴が踊って音が鳴った。まるで放り込んでしまいたいのを我慢しているようにすら見える。

「さぁ、長門さんもどうぞ」

 長門はハルヒ達の後についていく形で入っていった。一瞬、足を止め、古泉の方を見る。

「……長門さん。どうか、お先に」

 この時、長門は古泉に何かをつぶやいたように見えた。そして、わずかに硬直したかのような間ができて、長門もそれから店の中に入っていく。

 なにか言葉を交わしたのだろうか。だが、俺からは古泉のほとんど背中側しか見えなかったため、二人がこの一瞬でどんなやり取りをしたかはわからない。

「やれやれ。全員入ったようだな」

「ですね。あとは僕とあなたです」

 らしいな。

 後に残されたのは、自然と殿の形になった俺と古泉だ。こいつはぜひにと言っていたが、これまでの経験上、こいつのこのような誘いに素直に従うのもいかがなものかと、俺の中の警鐘が変拍子で静かに唸っている。なんならこのまま帰ってもいいのだろうが、それはさすがに後味が悪いな。

 古泉はそんな俺の思惑を見透かしていたのか、振り返りざまにつぶやいてくる。

「あなたには、ぜひ来て頂きたい」

 ——なんだと?

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