ジョニトリー!

夜鷹亜目

プロローグ

 息が弾み鼓動が跳ねる。それを俯瞰したみたいに捉えながら、早く、もっと早くと繰り返し頭の中で唱えつつ、俺は校庭の二百メートルトラックを駈けていた。


 腕を大きく前後へ素早く振り、顎は少し引き、意識的に呼吸を少なく。

 何度も何度も練習した動作は体に染みつき、機械のようにこなす。ただそれだけ。走る以外の考えをその時の俺は持ち合わせていなかった。


 俺の他にトラックを走るのは三人。いずれも俺と同じ中学の陸上部員だ。

 マネージャーの掛け声をきっかけに駆け出した四人の中で、俺は百メートルを過ぎた辺りにはトップを独走。それを維持したまま、ゴールラインを駆け抜けた。

 ゴールから十数メートル過ぎた場所で膝に手を突きながら荒く息を吐く。と。


「お疲れ様ですわ」

 声をかけられて振り返れば、微笑みがちに濡れタオルを差し出してくる赤いジャージ姿のマネージャーがいた。冬空を橙に染める夕陽に当たり、緩やかなウェーブを描くセミロングの髪が煌いている。


「ありがと」


 受け取ったタオルで汗ばむ額を拭う最中、マネージャーがが感心した様な声を上げてきた。


「流石ですわね、司。……あぁ、いえ。太田部長と呼んだ方が良いかしら?」

「止せよ、恥ずかしい。司のままで良い」

「けど部活動とは言え、公私混同は避けるべきではありませんの?」

「なら尚更だ。今日はもうお終いだからな」


 言ってタオルを返すと、マネージャーはクスッと笑いながら踵を返した。

 その後姿を眺めながら思案する。

 へんてこな喋り方ではあるが、彼女の容姿は端麗だ。お嬢様然とした口ぶりや素振りは、中学生にしては妙に大人っぽくて魅力的。そんなマネージャー目当てで陸上部に入部してくる生徒もいる程だ。


 そしてそのような羨望を集める彼女は、俺にとって一番親しい女の子だった。

 俺の周りには『お似合いだな』とか、『さっさと付き合っちまえよ』とか、そんな風に囃し立てる人間もいた。

 俺も口では『そんなんじゃねえよ』と言って煙に巻いていたが、内心では満更でも無かった。


 中学二年生。周りではぽつぽつと恋仲になる男女が現れ出して、俺もそんな関係に漠然とではあるが、憧れめいたものも抱いていて。俺にそんな関係となる人物がいるとすれば、それはマネージャーしかいないだろう、と考えていた。


 もしも告白をしたら、どう返答されるのだろう。そう考えることもしばしばあったが、結論としてそれなりの自信があった。

 彼女が親し気に話す異性は俺以外にいないし、周りだってマネージャーに話しかける時には俺に気を使っている節もある。


 そろそろ、潮時なんだろう。こんな関係を終わらせる、あるいは新しい関係を始める頃合い。


「な、なぁ」

「ん?」


 歩き去ろうとしていたマネージャーの背中へ躊躇いがちに声をかけると、彼女は振り返った。けど、その顔が見ていられなくて、俺は頬を掻きながら視線を逸らしつつ告げる。

「この後、教室で待っててくれないか? 話があるんだ……大事な」


 言い終えてからマネージャーの顔を一瞥すると、彼女は言葉の意味を察したのか、目を泳がせて頬を染めた。


「え、えっと……分かりましたわ」

 それだけを言い残し、マネージャーは足早にその場を後にした。


 他にも部員が残っている中での突然の誘いだったため、遠巻きに見ていた連中がマネージャーが去ったのを見計らってニヤニヤしながら話しかけてくる。


「いよいよか?」

「もう成功確定じゃーん」

「羨ましいな、おい」

 などなど。どれも待ち侘びたというか、やきもきしていたのを伝えてくるものばかり。俺はそれに対し。

「気が早いっつーの」

 と満更でも無かったが、言葉少なに応対してからさっさと部室へ引き上げた。


 いよいよ、か。

 体操着を脱ぎ、制服に袖を通しながら物思いに耽る。

 俺は今まで恋がしたことが無かった。子供じみた考えだが、そんなのより体を動かす方が楽しいと思っていたから。けど、マネージャーと出会い、そして気付いたら、そんな考えは消え失せていた。


 着替えを終えると、部室から出て校舎へと足を運ぶ。

 ……正直、俺はマネージャーを本当に好きなのか分からない。恋に恋しているだけなのかもしれない。けど、それでも、恋人として俺の隣にいる人間は、マネージャー以外に思い浮かばない。

 だからやっぱり、これはきっと『恋』なんだろう。俺は正しく、恋してるんだろう。


 夕陽が差し込む廊下を俯き加減に歩く。生徒の姿も疎らだ。そして自分のクラスに近づくに連れ、人知れず心拍数が上がっていく。


 何て切り出そうか。いきなり好きですと告げるか。あるいは長々と出会いから惹かれるようになった経緯を語るか。うーむ。考えがまとまらない。

 ……ええい、ままよ。会って、言いたいことを言ってしまおう。


 大きく頷き、俺は気持ち新たに顔を上げると、そこはもう目的地の教室の目の前だった。

 一度足を止めてから瞼を閉じ、深呼吸する。

 気持ちが落ち着いたのを確認し、意を決して僅かに開いた扉に手をかけた。が。


「そう言えば、太田君のことどう思ってんの?」


 中から声が聞こえて俺は固まった。

 太田なんて名前は学年で俺しかいなかったはずだ。一体誰が俺の話をしているのやら、と思いつつ扉の隙間から教室の中を覗き見る。


「どうって、どういう意味ですの?」


 マネージャーだ。先ほどのジャージから制服に着替えていた彼女は、窓際の席にこしかけたままきょとんとしていた。

 けれど彼女の席の前に立つ二人の女子は意味ありげに笑みを浮かべていて、その内の片割れが腕組みをしながら「ふふん」と鼻を鳴らすと。


「どうってそりゃ、男としてってことよー」

 心臓がドクンと高鳴り、俺は思わず息を飲んだ。

 思わず驚いてしまった。けれどそれはマネージャーも同じだったみたいだ。

 

「お、男として……ですの? え、ええっと」


 こんな盗み聞きするようなのは、如何なものだろうか。良心の呵責を覚える。

 一旦立ち去るか、直ぐにでも教室に入るべきだ。……だが。

「うんうん! もしかしてもう付き合ってるとか?」

「付き合ってはいないけれど……」


「……」

 俺はどちらの選択も取らず、廊下の壁に背中を預けながら、中から漏れ聞こえる会話に耳を欹てた。卑怯だと理解しつつ。

「付き合って『は』いないってことは、もしかしてもしかして、やっぱりそういうこと?」

「やっぱそっかー。そうだよねー。仲良さそうだったもんねー」


 二人の女子のテンションが上がる。俺も思わず笑みを浮かべてしまった。女の子の目から見ても、俺とマネージャーが親しそうに映っていたのが嬉しかったのだ。

 これなら、告白も成功――。


「……そんなのではありませんわ」

「「「え?」」」


 女子二人の声に重なるように、俺も呆けた声を漏らしてしまった。慌てて口を塞ぐ。

 幸いにも中には聞こえなかったようで、マネージャーの発言が続いた。


「あくまで部員とマネージャーとしての関係に過ぎませんわ。それ以上も以下もありません。大体、恋人にするなら……その、も、もっと背が高くて、頭も良い人を選びますわ」

「あ、あー。そうなんだ。いきなり変な話してごめんね」

「私もごめんねー。てっきり相思相愛なのかなーとか思っちゃってたよ」


 どこか申し訳なさそうな、それでいて白けた様子で言葉を交わす少女たちの声が響く。

 それを聞きながら、俺は胸にぽっかりと穴が開いたような感覚に翻弄されていた。

「そっか……そうだよな」

 囁くように言って、俺は自嘲しながら壁から背を離して歩き出した。


 何を高揚してたんだか。アホらしい。馬鹿だ。アホで馬鹿だ。アホ馬鹿だ。

 熱いものがせりあがって来て、気付けば視界が歪んでいた。

「くそ、くそ、くそ!」

 袖で涙を拭いながら、悪態をつく。悪態の対象は、勝手に舞い上がっていた自分だ。


 俺がいけないんだ。付き合えるとか妄想して、期待して、それで打ち砕かれて打ちのめされて……惨めだ。この上ない醜態を晒している。


 でも、それでも、少しはマネージャーを恨めしく思っている自分もいた。気がある様な素振りを見せて、それで実際は何の気も無いだなんて。

 ただ、そうやって彼女を恨むのは女々しいだけだ。勘違いした俺が、やっぱりいけなくて。


 涙はとめどなく溢れ、心は乱れっぱなしで、階段に差し掛かってからも心ここにあらずで。だからこそ。

「あっ」

 宙に浮いた。階段を踏み外したのだ。

 一瞬の浮遊感の後、俺は右半身を階段に打ち付け、そのまま転がって踊り場まで下りた。


 どうせなら転生ってやつを経験してみたい心境だったのに、視界に映ったのは見慣れた踊り場の天井。それに、痛い。とてつもなく痛い。けど、胸の痛さに比べれば、まだマシだった。

 仰向けに倒れたまま、腕で瞼を覆う。涙がとめどなく溢れる中、俺は震える声を絞り出した。


「こんな苦しいなら、こんな悲しいなら、愛なんていらないって、誰かが言ってたけど……ホント、そうだなぁ」

 そう言って、俺は嗚咽を漏らした。


 ……そうして俺は肋骨の骨を折り、陸上部の長期離脱を余儀なくされ、程なくして退部した。それからはマネージャーとも殆ど会話もせず、それから時は流れ――。

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