第7章

 十二月二十九日、土曜日。一年振りに大掃除をした。床や壁や窓ガラスを拭き、排水溝に洗浄液を溜めて流した。遅めの昼食をとった後、一時間かけてユニットバスを磨いた。全てが終わった時には三時を回っていた。コーヒーを一杯飲んだだけで、慌しく決起集会へと出掛ける。


 駅までの道、松本勇気に電話を掛けてみたけれど、〈電車内のため電話に出る事ができません〉というメッセージが返ってきた。どうやら彼はずいぶん早くに家を出たらしい。

 僕は集会に松本を誘っていた。理由は二つある。一つは、生徒九人では団体割引にならないので、あとひとり誰でもいいから加えよう、という話になったこと。もう一つは、こんな特殊な親子関係もあるのだということを皆に紹介しようと思ったのだ。

 参考にしてもらおうという意図もあった。参考にならないだろうな、という気持ちはもっとあった。


 小金井駅の改札口を出てすぐの所に松本勇気は立っていた。約束の時間に遅れたわけではなかったけれど、僕はごめんごめんと謝った。彼はいつも通りにこにこしているだけだった。二人でバスに乗り、カルチャーセンターの最寄駅である花小金井駅へと向かう。


「珍しいね、ハルトくんが飲みに誘ってくれるなんて」


「松本くんの知らない人ばかりなんだけど、よかった?」


「僕はね、誰とでも仲良くなれるんだよ」


 彼は口癖のようにこのセリフを言う。そしてこのセリフは、僕と聡ちゃんの祖母の口癖でもあった。ことあるごとに、「誰とでも仲良くなれる」と豪語していたのを憶えている。

 聡ちゃんにはその血が十分受け継がれている。

 僕にはあまり受け継がれていないようだ。


 駅前にはすでにCクラスの面々が揃っていた。他にも知らない顔が二人いる。いずれも女性だった。そこに僕たちが加わり、男女の集団がぞろぞろと歩き出す。

 店は駅から歩いて三十秒の小洒落た居酒屋だった。僕たちは奥の個室に通される。

 個室といっても、格子でぐるりと取り囲まれた牢屋の様な空間で、なかは座敷になっていた。長大な座卓の端に咲良さんと加藤さんが並んで座り、僕と松本は二人の正面に座った。


 我々を待ち構えていたように、酒とコース料理の一品めが運ばれてきた。幹事が挨拶をした後、すぐに会は三つの島(四人ずつ)に分かれた。


 僕たち四人は、各々育った環境や家庭の事情などについて発表し合った。思った通り、松本勇気の良好な親子関係について、二人の女性はとても羨ましがった。


「私、小さいころ、手がつけられないほどヤンチャだったんです。殴ったり、壊したり、盗んだり」

 加藤さんの打ち明け話は頗るヘビーなものだった。

「とにかく暴れることでしか自分を表現できなかったんです。両親もほとほと困り果てて、それで、小学校三年生の夏休みの初日、私にこう言って聞かせたんです。あなたは私たちの本当の子供じゃないのよ。あなたのお父さんとお母さんはあなたが幼い頃、交通事故で死んでしまったの。だから私たちが代わりにあなたを育ててるの……」


 誰も何も言わなかった。


「癇癪を起こすたびに、哀しい目をしながら同じことを繰り返し言われました。さすがにひいちゃいますよね。それをきっかけにずいぶん大人しくなりました」


 加藤さんは、ピンクの髪を薬指で耳に掛けながら、持参したコンデンスミルクのチューブを咥えて吸った。料理には一切手を付けていない。


「この二人は他人なんだ、なんて思ったのはほんの短い期間です。そのあとすぐ、本当の他人になりました。二人は誰なんだろう、何であたしのこと育ててるんだろう、なんて考えもしないし、育ててくれてることに感謝もしない。ただ一緒に住んでる人、傍にいるだけの人です」


 加藤さんの敬語は、血の繋がらない赤の他人だと思っていた実の両親と話すために、自然と身についたそうだ。


「本当の両親だってことはいつ知ったの?」

 咲良さんが訊いた。


「高校入試の願書を出すとき、戸籍謄本を見たんです。そこには里親の名前なんて書いてなくて、同居人が父母ってなってて、それで私、わけがわかんなくなっちゃって……」


 高校に入った加藤さんは、趣味のコスプレで収入を得られるようになり、卒業を待たずに家を出たという。以来、両親とは会っていないそうな。


「そうゆう複雑な事情の人って、普通Bクラスなんじゃないかしら?」

 咲良さんが僕を見て言った。


「たぶん、親との確執がないってところが考慮されたんじゃないかな」


「私もそう思います。親を親と思えない心理状態は、Cクラスの講義内容が適してると判断されたんじゃないでしょうか」


「加藤さん、いつからコスプレしてるの?」

 松本勇気があっさり話題を変えた。


「中二からです」


 今日の加藤さんは、輪をかけて人目を引く格好をしている。いつもの白マントの下は、荘厳な軍服姿だった。ただし上下ともオレンジ色だ。

 腕章にはマントと同じ紋が入り、肩にはやはりフリンジ、腰には軍刀を帯刀し、胸には五つの勲章がじゃらじゃらと垂れ下がっている。見た目の印象は、軍の元帥、はたまた宇宙連合艦隊の総司令官といったところか。


「お金はどうしてたの?」

 咲良さんが訊いた。

「コスプレってお金かかるでしょ?」


「最初は小遣いのなかでやりくりしてましたけど、足りなくなってくると、事情を説明して、臨時の小遣いをもらってました」


「説明って、メールで?」と咲良さん。


「いいえ。面と向かって説明して、直接もらってました」


「私、直接お小遣い受け取ったことないわ」

 咲良さんは僕の方を向く。

「ある?」


「僕もないなあ。毎月、電子マネーにチャージされてた。うん。お年玉もそう」


「僕は、お小遣いもらってなかったよ。いつも家族揃って買い物に行ってたし、欲しいものは、言えばたいてい買ってもらえたから」


 仲良し家族とは、そういうものか。


「ねえ、ひとつ訊いていい? 今振り返って、どう? 両親から、自分たちの娘じゃないって言われて、正解だったと思う?」

 咲良さんが話題を戻した。


「そうですねえ、正解かどうかはわかりませんけど、あの時あんなふうに言われてなかったら、もっと悲惨なことになってたのは確かだと思います。そう考えれば、ありだったかもしれませんね。ただ、それなりに負い目を感じながら生きることになりますけど」


「そうか……、そうよね」

 咲良さんは、不憫そうに加藤さんを見る。


「でも、その負い目がまた良かったと私は思ってるんです。おかげで勘違いせずに済んだかなって」


「勘違い?」


 咲良さんと加藤さんが話し込む隙に、僕と松本は料理を堪能する。


「十代の頃って、自分が無敵になったように感じることありませんでした? 怖いもの知らずっていうか、自分は何でもできるんだ、って感覚」


「ああー、わからないでもないわ。根拠もなく自信満々だった頃、私にもあった」


「私の周りも自信過剰な女子ばっかりだったんです。みんな無敵感に自己陶酔してました。自分が最強って思いながら、友達以外のことを嘲笑ったり、時には友達のことも見下してた。そういう勘違いしちゃってる子たちを、私は客観的に見ることができたんです」


「加藤さんには無敵感がなかったんだ」


「まったく感じなかったわけじゃないですけど、私には負い目がありましたから。その適度な劣等感が勘違いを許してくれなかったんです」


「ふうん」


「ただ、別の種類の勘違いをしちゃいますけどね」


「あら、どんな?」


「出生妄想がひどいんです」

 加藤さんが自虐的に笑った。


「出生妄想?」

 咲良さんは首を傾げる。


「自分の出自を誇大妄想することです。実は私はもっと高貴な生まれなんだ、とか、私の本当の親はどこかの国の王様なんだ、大企業の会長なんだ、私はヴェルディナント連邦軍のサー・グレグラーヴィン将軍の娘なんだ、とか」


 どうやら最後のが加藤さんの妄想らしい。


「まあ、でも、妄想だったら誰にも迷惑かけないし、想像力も豊かになっていいんじゃない?」


「そうですね。おかげで二次元ファンを拗らせてコスプレイヤーにもなれました」

 将軍の娘はあっけらかんと笑いながら、練乳チューブを取り出して、ぶちゅっと吸った。


「もし加藤さんに子供がいたとして、その子が……」

 咲良さんは言いにくそうだ。

「加藤さんの子供時代みたいな手の付けられない状態だったら、同じ様に言うと思う? あなたは私の子供じゃない、って」


「選択肢の一つではありますね。私みたいな興奮状態の子には、冷や水をぶっかけてクールダウンさせる必要があると思うんですよ。だから、子供の性格とかも考えて、いけそうだったら、言っちゃうかもしれません。あくまで最終手段ですけど」


「ふうん……。じゃあさ、他人にお勧めできる?」


「提案くらいならするかもしれません。私の体験談を披露して、うまくできる自信があるなら、どうぞって」


「うまく演じて、うまく騙すってこと?」


「ええ。私の場合、自分で気付いてネタばれしちゃいましたけど、その前にちゃんと話してくれてたら、案外うまくいってたような気がするんですよ。うちの両親も告白する時期を窺ってたんじゃないですかね。なんです? 咲良さん、子育てで悩んでるんですか?」


「あら、私まだ産んでないわよ、結婚したい人はいるけど」


「ええー、そうなんですかあ」


「あ……、なんか、さっきから、私たちずっと二人で話してるわね」


 加藤さんと咲良さんが顔を見合わせ、僕と松本の方を振り向いた。


「いや、いいですよ」

 僕は好物の海老真薯を咀嚼しながら言った。


「加藤さんはどんな男性がタイプ?」

 松本勇気が能天気な声で訊いた。


「どしゃ降りの中、傘も差さずにずーっと待ってる人」


「何を?」と、松本。


「私のことを」


「へえ~……」と、一同声にならない声を漏らした。


「彼の告白を断って、私は走り去るの。当然、彼は私を追いかけてきて、家に閉じ籠った私を外で待つの。そのうち雨が降ってくるんだけど、そんなのかまうことなく私の部屋を見つめながら、ひたすら待ち続けるの。どしゃ降りの中、ずぶ濡れになりながら、何時間でも。その間、私は家の中で──」


「それは好きなタイプじゃなくて、好きな人にして欲しい事じゃない?」


「へ?」


 切り込み隊長を買って出たのは、まさかの松本勇気だった。

 加藤さんは虚を衝かれて静止している。


「うん、それはいえてるかも」

 僕は松本の言葉を継ぐ。加藤さんの話が聞くに堪えなかったから、というわけではない。はずだ。

「例えば、加藤さんの嫌いなタイプの男、よく知らないけど、嫌いな芸能人でも頭に浮かべてみて。そいつが家の前で待ってるところを想像してごらんよ。ずぶ濡れになりながら、ずーっと、ずーっと家の前に立ってるところを。嫌じゃない? つまり、どしゃ降りの中、待っててくれる男が好きなんじゃなくて、好きな男にそうして欲しいんだよ」


 ふーんだ、とばかりに将軍の娘は口を尖らせ、そっぽを向く。


「ハルトくんは? どんな女性がタイプ?」

 松本が訊いてきた。


 こいつは僕とさくらがつき合っていることを知ってるはずなんだけど……


「普通の人」


「普通って?」

 加藤さんがすかさず訊く。


「バランス感覚のしっかりした人。太り過ぎでもなく痩せ過ぎでもなく、不潔でもなく潔癖でもなく、浪費家でもなく倹約家でもなく、SでもなくMでもなく」


「倹約家ってのは別にいいんじゃない?」

 咲良さんが言った。


「度を越えた倹約家っているでしょ。ほら、ティッシュの空き箱で収納ボックス作ったり、物が捨てられなくてゴミ屋敷みたいになっちゃったり」


「ああー」と言う声が三人の口から漏れる。


「倹約家っていうより、吝嗇家かな。もちろん節約することは大事だと思ってるよ、僕だって」


「咲良さんは? どんな男性がタイプ?」と松本が訊いた。


「そうねえ、便座を必ず下ろしておいてくれる人かな。トイレに入った時、便座が下りてなかったら、即サヨナラって気分になっちゃう」


「それだけで嫌いになるんですか?」と加藤さんが言った。


「嫌いになるっていうか、萎えちゃうのよね、心が」


「言えばいいじゃないですか。便座は下ろすようにしてって」と加藤さん。


「う~ん、それはちょっと違うのよねぇ……。何ていうか、もういいやって気分になっちゃうのよ。ああ、この人はこういう人なんだな、って」


「わかるなあ、それ」

 僕は言った。


「ハルト君も、便座をおろしてないと許せないの?」と松本が訊いた。


「いや、便座がどうこうじゃないんだ。自分とは感覚の違う人に、自分の感覚を押し付けたくないんだよ」


「そうそう、咎めるほどのことじゃないんだけど、でも絶対に譲れないのよねえ」


「別れるくらいなら言うと思いますけど、普通」

 加藤さんが言った。


「そうゆう我儘は言いたくないの。といっても、形を変えた我儘なんだけどね、これって」


「そうだね」

 僕は咲良さんに同意する。

「相手に押し付けるか、身を引くか。真逆だけど、結局は我儘を貫いてるんだよね。でもこれが、最も平和的な解決法だと思ってる」


「う~ん……」

 加藤さんはまだ釈然としない表情で唸っている。

「恋愛経験を重ねれば、そんな風に思うようになるんですかね」


 僕は咲良さんと顔を向き合わせる。


「性格じゃないかしら?」


「そうだね。性格」


「あまり年齢とか経験とかは関係ないと思うわよ」


「加藤さんて、歳いくつ?」

 松本が訊いた。


「十九歳です」


「え!」と一同。


 若いとは思っていたけれど、そこまで若いとは思わなかった。おそらくCクラスの誰も思ってなかったろう。


「加藤さん、まだ十九だったんだ……」

 僕は思わず呟いた。


「私ってそんな老けて見えますかね?」

 将軍の娘が頬っぺたを膨らませ、僕の方に笑顔を突き出す。


「まあまあ、提督、後生ですから」

 咲良さんが宥めてくれる。咲良さんの中では提綱監督らしい。

「ねえ、それより聴いてよ。私、三日前にようやく親から返信が来たの。三日前よ。遅くない?」


 咲良さんの両親からの手紙には、娘の里帰りを歓迎する旨、父親の病気が手術によって快方に向かっている旨が、簡潔に記されていたそうだ。


「実家、浜松だっけ? あの辺りなら気候も温暖だし、療養にはもってこいだね」

 僕は言った。


「でも、どうしてそんなに返事が遅くなったんですかね?」

 加藤さんが訊いた。


「それがわかんないのよねえ。やっと届いた手紙も、たったの四行しかないし。ホントに歓迎する気があるのかしら。不安になっちゃう」

 咲良さんは、目の前の料理を平らげ、ビールグラスを呷った。


「うちは早かったですよ。四日後に返事がきました」

 そう言いながら加藤さんは、自分の前の皿を四人の中心に差し出す。もちろん料理は供された時のままだ。


「それはまた早いなあ。加藤さん、実家どこだっけ?」

 僕は訊いた。


「宇都宮です」


 バチッ!


 今、咲良さんと加藤さんの間で、何かがスパークした──ように感じたのは、僕の気のせいだろうか。


「餃子の街だあ」

 松本がのほほんと声を上げる。


「まあでも、返事があるだけまだいいよ。うちなんか……」


 僕の落胆ぶりを見て、咲良さんには察しがついたようだ。


「ひょっとして……、まだなの?」


 僕は溜息で返事をした。


「まだわかんないですよ。帰ったら届いてるかもしれませんし」

 加藤さんが柄にもなく慰めてくれる。


「そうそう。今頃届いてるわよ、きっと。うん。ねえそれより、松本さんのご両親の話をもっと聴きたいわ」

 咲良さんは強引に話題を変えた。


「僕の両親について知りたいなら、いいものがあるよ」

 松本は端末を操作し始める。

「僕ね、最近秘書アプリを自作したんだ。パパ! ママ!」


 松本が呼びかけると、端末からクオーターサイズの六十代と思しき男女が現れた。


「この人たちが、松本さんの……」

 咲良さんが目を剥いて驚く。


「パパとママだよ。見た目も中身も。二人をトレースして作ったんだ」


 自分の両親を秘書アプリにするヤツを僕は初めて見た。これほど奇想天外な男を僕は知らない。

 松本勇気の両親は、ずっとニコニコしながら息子を見つめている。その温和な笑顔は、僕にデンちゃんを想起させた。

 そんな仲睦まじい松本親子に女性陣二人が襲い掛かる。容赦なく根掘り葉掘り問い質し、松本一家は敢えなく丸裸にされていった。怖ろしい光景だった。


「私は、今のアプリを使ってもう十年になるわ」


 咲良さんは自分のパートナーを呼び出し、皆に披露した。咲良さんのパートナーは今も活動を続ける男性ユーチューバ―だった。ただし年齢は今より十歳若い。


 次いで加藤さんもパートナーを呼び出す。予想に違わずアニメのキャラだった。緋色の髪と黒いアイパッチが特徴的な隻眼の女海賊だ。名前を聞いても誰もわからない。

 現れるなり横柄な態度で加藤さんと接していた女海賊だが、会話を聴くうちに、ツンデレキャラであることが知れた。特に用はないと見たのか、登場から二分と経たないうちに、ふんぞり返った姿勢で葉巻の煙を燻らせながら消えて行った。


 当然の流れで、次は僕の番だ。三人が僕に注目する。

 僕はキュキュを人前に出すことが恥ずかしかった。それでも出さないわけにはいかない雰囲気になって、しぶしぶ呼び出した。場を弁えておとなしくしていてくれることを期待したけれど、そんな僕の想いなんかどこ吹く風で、キュキュはいつものキュキュだった。


「あははは! こんな変な秘書アプリはじめて!」

 皆、異口同音に言い合った。


 キュキュが一言しゃべるたびに、僕が辱めを受けている気がしてならない。こんな変なパートナーを連れている僕が変な目で見られやしないかと気を揉む。


 その後、秘書アプリ同士を会話させるという、ひと昔前に大流行した遊びに興じた。加藤さんは自分の端末にキュキュをダウンロードして呼び出し、僕のキュキュと会話させて楽しんだ。あまりにも不毛な会話なので、僕はすぐにでもやめたかったけれど、場が盛り上がっているだけにそうもいかない。人知れず歯噛みして堪える。そんな僕の気も知らず、三人は腹を抱えて笑った。


 こちらの盛り上がりに他の二つの島の八人も興味を示した。その結果、二人のキュキュによる漫才は延長され、部屋全体が揺れるほどの大爆笑が何度も起こった。僕だけが終始苦笑いだったことはいうまでもない。


 会も終盤に差し掛かった頃、二組の男女が結婚を間近に控えていることを発表した。皆盛大な拍手で祝福し、場が一気に和んだ。

 最後に幹事が短い挨拶をして、決起集会はお開きとなった。



 心地良いほろ酔いを土産に、夜九時ごろ帰宅した。しかし、空っぽの郵便受けを見た途端、みるみる酔いは醒めていった。

 帰って来るな、という意思表示なのだろうか。そんな考えが頭を過る。


 シャワーを浴びて、歯を磨き、カウチソファに腰を下ろした。

 出発は明日の早朝。荷造りは昨日のうちに済ませてある。あとは寝るだけ。なのに眠気を感じない。不安に邪魔されて眠れない。


 楽観していたわけではないけれど、返事は必ず来るものと思っていた。想定外の事態に、僕はうろたえる。

 こんなことなら手紙なんか出すんじゃんかった。得体の知れない人たち、という思いがますます強くなっただけだ。


 手っ取り早く電話してみるか。そう何度も考えた。

 けれど、相手が電話に出た後のことを考え、二の足を踏んだ。何を話していいのかわからない。どんな会話になるのか想像がつかない。今の僕には、電話で話す前に、もう一段ステップが必要なのだ。


 自分が誰に会いに行くのか、何をしに行くのか、またわからなくなってきた。自分の親だということは分かっている。でも、その親が何者なのかが分からないのだ。

 僕はスイッチが入ったみたいに、両親について知りたいと思い始めた。何でもいい。たった四行のメッセージでいい。何かしら親の人となりを知る手掛かりがほしい。こんな気持ちのままでは両親に会いに行けない。


 ふと、部屋の片隅にあるダンボール箱に目が留まった。七年前、この部屋へ引越して来た時、ここに置いたきり一度も動かさず、一度も手を触れていない箱だった。中身が何なのか思い出せない。ほとんどブラックボックスと化している。

縋る思いでダンボールに近づく。

 ひょっとするとこの中に、両親について知る手掛かりが入っているかもしれない。古いアルバムが入っているかもしれない。まさか『有田みかん』のはずはあるまい。


 一縷の望みを抱いて、ダンボールのガムテープを剥がした。

 一番上にあったのは、古い日記帳だった。僕にとって唯一の手書きの日記帳。二十歳の時のものだ。

 開いてみると、正月に今年の抱負を述べただけで、あとはほとんど真っ白なままだった。一月二日の欄に「寝すぎて頭痛い」とだけ書き残し、こと切れている。これではまるで、頭痛が原因で死んだみたいじゃないか。

 それにしてもヒドいな。この日記を見る限り、僕には三日坊主を名乗る資格すらないということになってしまう。


 自分にがっかりしてる場合でもないので、気を取り直して他に手掛かりを探す。探し物が何かも分からないまま雑多な物を掻き分けていたら、あることを思い出した。

 僕は高校時代にも日記を付けていた。寮の電算室の隅っこにあったモニターがブラウン管の骨董品みたいなPC。あれだけいつも空いていて、後ろが壁だから覗き見される心配もなくって、そうだそうだ、あのPCで留萌の春輝くんにメッセージを打って、返事が来るまでの間、日記を書いて、USBメモリに保存していたんだ。

実家から持って来た黄色いUSBメモリ。あれは僕が買ったものじゃない。僕はUSBメモリなんて買ったことがない。家に昔からあったUSBメモリだ。あれには確か、いろんなファイルが入っていた。画像ファイルもあった。動画ファイルもあったかもしれない。ちゃんと見た記憶はない。見たかもしれないけれど憶えていない。当時の僕には興味のなかったもの。だとしたら、可能性がある。

 身体の底から希望がふつふつと湧いてきた。ふたたび中身を勢いよく引っ掻き回す。

 ひょっとしたら両親の画像が入っているかもしれない。両親の人となりがわかる何かが書いてあるかもしれない。四行でいい、いや、一行だけでもいいから何か手掛かりが欲しい。

 僕は一心不乱にダンボールの中身を掻き分けた。しかし掻き分けても掻き分けても、同じ物ばかりが目につく。小さなUSBメモリは底に沈んでいるに違いない。

荷物が入った状態で掻き回していたのでは埒があかない。僕はダンボールを抱え、箱の中身を思い切って床一面にぶちまけた。

 目を皿のようにして探す。しかし見つからない。重なった物を一つ一つどかして確認する。やはりない。

 もしやと思い、ダンボールの中を見てみる。

「あった!」

 箱の中には黄色いUSBメモリだけがぽつんと残っていた。メモリには何のラベルも貼ってないけれど、他のものを使ったことがないのだから、これに間違いないだろう。

 僕はUSBメモリを握り締め、三歩で到達するサイドテーブルまで走った。そしてメモリを端末の接続端子に……


「あれ……、端子の規格が違う。接続できない……」


 僕は膝から崩れ落ち、がっくりと肩を落とした。

 冷静になって考えてみると、このUSBメモリは、学校の授業で使っていたものだ。教師に提出することもあった。親の画像なんか入っているはずはないのだ。


 部屋の中は今朝掃除を始める前よりもはるかに散らかっていたけれど、僕はもう何もする気になれなかった。明日の帰省を不安に思うことすら面倒になり、カウチに横になって、そのまま静かに目を閉じた。


     第7章 完

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