魔女の黒猫は幸をもたらす〜異世界では黒髪はSSRなようです〜

雨森葉結

プロローグ

 その朝は、随分と平凡だった。

 当たり障りのない、いつも通りの朝だった。


 唯一違ったのは、家族が起きだす前に家を出ようといつものように玄関まで来た時に、いつもはあるはずのもう一足の革靴がそこにないということだけだった。




 太陽に温められかけた澄んだ大気の中を、駅に向かって歩き出す。

 早朝の閑散とした電車に揺られて20分、降車駅のアナウンスに気づいて単語帳を鞄にしまった。

 電子音と共に開いたドアを余裕を持ってくぐり、改札の先で残暑の空に浮かぶ白雲を眺める。

 ポケットのスマホを取り出すと、液晶がちょうど7時を告げた。


 今日も昨日と何も変わらない。


 私は自嘲気味に小さく笑うと、歩みを進めた。




 私の通う高校は、最寄駅からわずか数百メートル先にある。


 しかし途中の、駅前近くの交差点で変わった信号を待つ学生は誰もいなかった。

 それもそのはず、普段最も早く登校する生徒は私なのだから。


 車もほとんど通らない赤信号に律儀に従い、教科書で膨らんだ鞄を反対側の肩に掛け直す。

 ふと見ると、持ち手の紐の付け根のところがほつれかけていた。


 また補強しておくか。


 ソーイングセットは家に置いて来てしまったので、脳内で帰ってからやることリストに加える。


 あとは今日返却されるであろうテストの直しと、文化祭実行委員から預かった各クラスの書類のチェックと押印、それから再来週の地域貢献活動の一連の流れを確認した上で生徒用のプリントに起こし、部活の後輩の勉強を見るために去年授業でやった範囲を参考書で復習して…




 カツッ カツッ カツッ カツッ




 耳がさとく背後から迫る足音を拾い、パッと顔を左後方に向ける。


 そこにいたのは、色素の薄い胡桃色の髪を腰辺りまで伸ばした、よく見知った女生徒だった。

 彼女は私に全く気づかずにそのまま赤信号に突っ込んで行く。


「ちょっと、信号赤…………っ!?」


 私は声をかけようとした。

 が、その直後、突然右方向から騒々しくやって来たトラックに気づく。

 トラックは緩やかな斜面をものすごい速度で下り、目の前の交差点に差しかかろうとしていた。


 ……まずい。このままでは彼女が轢かれてしまう。


 当の本人はというと、大型トラックの急接近には全く気づかずにイヤホンで音楽を聴きながら手元の小さな液晶を凝視していた。


「危ない…………っっっ!!!!」


 叫ぶと同時に右足に重心をかけ、道路に飛び出す。

 コンマ1秒でギリギリ制服の背に手が届き、力の限り腕を押した。

 突き飛ばされ前のめりに転び、慌てて振り返った彼女の表情が一瞬で恐怖に染まる。


 彼女の瞳に映る私は、一体どんな顔をしているのだろうか。



 見過ごす? そんなことできる訳ない。だって彼女は、





 キキーーーーーーッッ……


 ドガシャーーーーーーーーーーン





 私のたった一人の、妹だったのだから。

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