第4話 「暴れる師」

 フィリップは身を挺し、たったひとりを守ろうと襲いかかる毒蠅の大群に突っ込んだ。


 ビュッ!


 フィリップの肩越しに、鋭い音が飛ぶ。

 

 カンッ!


 音が木の床に突き刺さる。

 フィリップが踏み出した爪先の、わずか数センチ先だ。

 思わずたたらを踏んだ。

 直後、鋭い閃光が床から放たれた。


「むうっ」


 フィリップは本能で目をつむった。

 閉じたまぶたの上をぬぐうように光が消える。

 そして気づいた。

 毒蠅の不気味な羽音が一切消えていることに。


「惜しいのう、フィリップよ」


 玄関の方向から残念そうな声が聞こえた。

 月明かりに浮かぶ小さな影。

 マルティヌスであった。

 フィリップは足元近くに床に刺さった一本の棒、「聖パウロの杖」を見て、後方をちらりと確認する。


「マルティヌス先生!」


 よちよちと歩んでくる師。

 マルティヌスは後ろ手に組んで、フィリップの横に立つ。


「まだまだ甘いわい。

 わしが援護せねば今ごろおまえさんは神の御許みもとに召されておった」


「し、しかし」


 エクソシストはどんな理由があるにせよ、悪魔を現世にのさばらせてはならない。

 だが目の前で動けぬひとを救うことも大事なはずだ。

 フィリップは師にそう告げようと口を開きかける。


「見よっ」


 鋭く威厳をこめた声で前方を指さすマルティヌス。

 フィリップは雷を落とされたように身をすくめ、台座に目を向けた。

 人々を悪魔信仰へと駆り立てていた漆黒の魔女が氷漬けにでもなったかのように両腕を上げたまま固まり、全身が溶解し始めているのだ。


 マルティヌスの放った「聖パウロの杖」は襲い来る毒蠅を消滅させることはできても、魔女や悪魔を融かすことは出来ないはずである。


「こ、これは」


 フィリップは驚愕するも、すぐに最初の目的であった、逃げ遅れへたり込む信者を助けるべく動こうとした。

 その肩をやけに力のこもった指で掴まれる。


「まだ気づかぬかっ。

 その黒き魔女はただの傀儡かいらいよ。

 真の悪魔は」


 マルティヌスは台座の前に座り込んでいるフードをかむったままの人間を指さした。

 その後ろ姿が揺れ始める。

 恐怖におののいているのか。

 いや、どうやら笑いをこらえているようだ。


「おぬしは、ベルゼブブではないな」


「クッ、クククッ」


 座ったまま笑い声だけが聞こえてくる。

 フィリップは腰を落とし、拳を構える。


「オッホホホホホッ」


 含み笑いはいつか嘲笑へ変わっていった。

 女の高笑いが響き渡る。

 マルティヌスは油断のない目つきで、床に刺さった杖を抜く。


 黒いローブに身を包んだ謎の人物は背を向けたまま立ち上がった。

 振り返り頭にかむっていたフードを両手で持ち上げた。

 月明かりにもわかるブロンドの、ウエーブのかかったロングヘア。

 ところどころ濃いピンク色のメッシュが見える。

 透き通るような青白い肌。彫りの深い面立ち。

 二重の切れ長の大きな目元。

 つんと尖った鼻梁。

 そして淫猥いんわいな笑みを浮かべた唇には、真っ黒なグロスが引かれている。


「よもやここで伝説のエクソシストに会いまみえるとはねえ」


 ゾクリと背中に電流が流れるような婬靡いんびな声音に、フィリップは思わずクラリとするが、聖書の一節を口ずさみながら耐える。


「あたしはベルゼブブさま配下のひとり、デラノヴァ。

 どうぞお見知りおきを」


 魔女は目を細めた。


「なんじゃ配下か、ふん。

 せこい真似をしおって。

 懲りもせず邪教を広めようとはのう」


「あと少しでそこの若い神父をあたしの下僕にできるところでしたのに、ああ、残念だわあ」


 フィリップに流し目を送る。


「ぼくは神に仕えし者。

 悪魔のあなたなどに惑わされるものか!」


「うふふっ。

 かわいいことを」


 デラノヴァはさらりとローブを脱いだ。

 十頭身に近いその身体は、盛り上がった胸をわずかに隠す程度の黒く光るビスチェ・ロングブラ、同じ素材のマイクロミニ、長く伸びる脚には網タイツにブーツというスタイルだ。

 デラノヴァはブロンドの髪をうなじからかきあげた。

 フィリップは視線をそらした。


「なにを遠慮する必要があるものかい。

 神父といえど、ほら」


 くびれた腰に手をやりくねらせ、わざと胸元が見えるように上半身を前傾させた。


「ほほう、随分とサービスがいいわい。

 ところが、残念じゃったのう」


 マルティヌスはついた杖に両掌をのせる。


「わしらはの、女子おなごにはちーとも関心がないのじゃよ、これがな」


 デラノヴァの片眉が上がる。


「さよう。

 わしらはの、いわゆるゲイじゃでな」


「せ、先生!」


 フィリップはあわてた。

 その狼狽ぶりをデラノヴァは勘違いした。


「なんだい、同性愛好者か」


 チッと舌打ちしたあと、首を傾げる。


「ちょっと待って。

 たしか、おまえさんたちのあがめる神とやらは同性愛を肯定しては」


 言い終わる前に、マルティヌスが動いた。


「ウソに決まっておろう!

 わしは若い女子が大好物じゃ!」


 振り上げた杖を大上段に構え、魔女の脳天目がけ渾身の一撃を放つ。

 それを後方へ回転しながらかわすと、金切り声をあげた。


「キーッ!

 てめえっ、神父がウソをついて恥ずかしくねえのか!」


「フォーッホホホッ、わしゃの、ぬしら悪魔を殲滅せんめつするためには手段は選ばぬのよ」


 さらに杖を横払いする。


「てっめえらっ、地獄へ道連れにしてやる!」


 デラノヴァは髪を振り乱し、窓ガラスを突き破って屋敷の外へ逃れた。


「おうおうっ、楽しくなってきおったぞ。

 フィリップよ、ゆくぞ!」


 マルティヌスの眼鏡奥の瞳が爛々らんらんと輝く。


「はいっ」


 高齢者とは思えぬ身のこなしで、マルティヌスはふわりと跳び、破られた窓ガラスを越えた。

 続くフィリップ。


 屋敷の外には飛び散ったガラス片が月の光を反射している。

 デラノヴァは片膝をついて大地に着地する。

 その上から黒い影となったマルティヌスがスータンのすそをひらめかせて飛びかかった。

 それを前転しながらかわし、立ち上がる。


 マルティヌスの小さな身体はそれを見切っていたかのように、真っ直ぐに突っ込んできた。

「聖パウロの杖」の切っ先を寸分の狂いなく、デラノヴァの顔を目がけて。

 シュッと大気を切り、デラノヴァの身体が宙に浮いた。

 マルティヌスは大地を蹴り、大きく跳ぶ。


「クウッ」


 魔女は黒い唇を噛む。

 伸びてきた切っ先が眉間を貫くと思われた直後、ふいに切っ先が横に流れ、バシッと頬を打たれた。

 そのまま大地へ落ちて転がる。

 マルティヌスの身体も着地した。


「そんな簡単に地獄へもどれると思うたら、大間違いじゃぞ」


 赤い筋の入った頬を押さえながら、デラノヴァは怒りのためにブロンドヘアを逆立てた。


「よくもあたしの美しき顔に傷をつけたなっ、このジジイ!」


「なにをほざくか、悪魔よ。

 ぬしたちが善良な人々を歯牙にかけ清廉な魂を汚してきたことに比べれば、まだまだ足りぬわ」


 デラノヴァは立ち上がると両腕をひろげた。


「ふん。

 まだわからぬか。

 ぬしごときの魔力はこの『聖パウロの杖』の前では、無力じゃ」


 歯噛みする魔女。

 じりじりと後ずさりし始めた。


「さすがはエクソシスト・マルティヌス。

 だがこのままで済むと思うなよ!」


 デラノヴァは前を向いたまま、後方へ大きく跳び始めた。


「フィリップよ!」


「は、はいっ」


 壊れた窓の下で、師と魔女の戦いに度肝を抜かれた顔で見ていたフィリップはあわてて返事する。


「なにをボサッとしておる。

 さあ、追いかけるんじゃ!」


「わかりましたっ」


 フィリップは武器を仕舞ってある布袋を背負うと、デラノヴァが逃走していく林道を走り出す。


「ふうっ」


 マルティヌスはひとつ大きく息を吐いた。


「寄る年波には、さすがのわしも勝てぬ。

 どれ、行くか」


 林道の木陰に置いてあった布袋を「やっこらせ」と担ぎ、杖をつきながら歩き出した。

 満月は地上での出来事を、冷ややかに見下ろしていた。

                                  つづく

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