第1話 その恋は突然に

 ある日の夜のこと。


 轟々と風が渦を巻く漆黒の闇の中で、痛みも寒さも感じることはなく、ただただ自分を引き摺りまわす力に少女は身を委ねていた。

 いつからここにいたのか思い出せない。

 それだけじゃない。自分が何者なのかも、なにも……


『約束の時間はとっくに過ぎたぞ』


 どこからか声が聞こえた気がした。自分を呼ぶ声が……


 そうだ。行かなくてはいけない。

 なんのことだか思い出せないまま、ただ急がなければという焦りの気持ちが湧いてきた。

 その刹那。

「っ!?」

 少女は闇の渦の中から放り出された。



◆◆◆◆◆



「うぅ……ここはどこ、私はいったい……」


 目を開けると水面に映し出されているように輪郭のない朧月が、夜空に浮かんでいる。

 状況が把握できないまま見渡すと辺りはしんっとした夜の静寂に包まれていた。

 手入れの行き届いている庭園内は、芝生が刈り揃えられており、白と赤の薔薇で出来たトンネルや七色の魔法火に照らされている噴水がとても綺麗だ。


 ただ今はそんな景色を楽しんでいる余裕などない。

 グルルルルルル

 腹に響くような低い呻き声が聞こえてくる。


「ひっ」

 目の前に突如現れた闇色の猛獣が、一歩、二歩とこちらを威嚇しながら近付いてくるのだ。

 見たことのない猛獣は紅蓮の瞳を三つ持っていた。二つは人と同じように左右対称にもう一つの瞳は額に。

 その三つの目でこちらを睨みつけ鋭く刃物のように伸びた牙を剥き出している。


「こな、いで……」

 猛獣はよく見ると闇色の剛毛ではなく、黒い炎を身に纏っているようだった。この世のモノとは思えない。

「っ」

 ついに猛獣が地面を蹴り上げ二メートル近い身体が宙へ飛び上がる。

 喰われると思い、そのまま硬く目を閉じその時を静かに待った。


 しかし――


「グルルルルルル」

 断末魔を上げて消えたのは少女ではなく猛獣の方だった。

 突如出現した閃光で真っ二つに身体を裂かれた猛獣は、やはりこの世のモノではなかったのか地面に倒れることはなく、不吉な黒い煙を上げて闇の中に溶けて消えた。


「無事か?」

 鞘にたった今使った剣を収めながら男は、こちらにそう尋ねてくる。

「は、い……ありがとう、ございます」


 外套をマントのようにはためかせた全身黒装束の男が振り向く。

「その姿……お前はいったい……」

 男は少女の姿を見て、まるで幽霊にでもあったように驚いた顔をする。

 しかし目があった瞬間、なぜだか少女はドクンと身体中が脈打つように反応した。


 なにか言葉を発しなければと思うのに、上擦って言葉は喉の奥に引っ掛かり口をパクパクしながら、惚けた顔で男を見つめ返すことしかできないほどだ。


「ぁ――、貴方様のお名前は?」


「は? ……まずは自ら名乗ったらどうだ」

 訝しそうに眉を顰める彼の意見をごもっともだと思いながらも、その言葉に困ってしまう。

 自分には名乗れる名前がなかった。正確には覚えていない状況だ。


「私は……その、名乗れる名がありません。なにも覚えていないのです」

 名乗りたいのに名乗れない。自分のこと、過去のこと、振り返ってみようとしてもなに一つ思い出すことができない。

 今ここに立って突然猛獣に襲われた以前の記憶がない。

 そんな少女を見かねたのか、男は溜息を付いた後、口を開いた。


「俺の名は、レイヴィン」

「レイヴィン様……」

 うっとりと吐息交じりで今聞いたばかりの彼の名を呟くと、レイヴィンはなぜか少女の方を睨みつける。

 見つめすぎて不快にさせてしまったのかもしれない。


 けれどその冷ややかな視線が不思議と心地よくて嫌じゃなかった。むしろ少女の胸は高鳴っていた。


 記憶を失い心にぽっかりと穴が開いたみたいな虚無感を、温かな感情が満たしてゆくみたいに。


(なんて素敵な殿方……)


 けれど瞳を輝かせた少女から視線を逸らし、レイヴィンは無言のままこの場を離れて行こうとする。

「あぁ、お待ちください!」

 呼び止めたくて手を伸ばしたが、思ったように引き止めることができない。

 少女は唖然として男の身体をすり抜けた自分の手を見つめた。


「どういう、こと? 私……身体が」

 透けている。

 この時、始めて自分に肉体がないという事実に気付いた。手も足も身体も全てが半透明に透けている。


「自分の状況に気付いてなかったのか」

 いつの間にか足を止め、再びこちらに向き直っていたレイヴィンが呆れた声でそう言う。

 そうか、だから彼は先ほどこちらを見て、幽霊でも見たように驚いていたのか。

「そんな……私、どういう、こと?」

「どういうことだろうな。身体のない今のお前は、いわば亡霊か」

「ぼ、亡霊……私は、既に死んでいるってことですか?」


「さあな」

 それだけ答えると、再び彼はどこかへ向かおうと歩き出す。

「お供させてください!」

「……今は付いてくるな、やることがあって忙しい」

「そんな~」


 確かに偶然出会った亡霊に付き纏われたら彼の方は迷惑だろうが、少女としては心細くて一人ぼっちにはなりたくない。


「あのあの、助けられた恩返しに今度は私が貴方をお守りします! そのためにお側にっ」

「あいにく、俺はお前に守られる程弱くない」

「じゃあじゃあ、守るのではなく後ろからそっと見守っています!」

「なんだそれは、背後霊にでもなるつもりか」

「そんなつもりはなくて」

「じゃあ、何の意味がある」

「私の目の保養になります!」


 元気よく半透明の右腕で挙手して答えた少女を、レイヴィンは完全な半眼で見やる。彼の呆れ具合がよく伝わってきた。

「……それのどこが恩返しなんだよ。アホか」

 話にならんと踵を返し歩き出したレイヴィンを、しかし少女は諦めることなく追いかけた。


「うぅ、見捨てないでください……なんでもしますから!」

「……へ~、なんでもね」

 足を止め呟いた彼の声を聞いて、少女はちょっと軽はずみなことを言ってしまっただろうかと思ったが。


「なら、俺の使い魔になれ」

「え?」

「俺の命令は絶対だ。言う事を聞いて大人しくしてるなら、傍に置いてやってもいい」

「使い魔、それはどういう……」

「どうする?」


 まるで試すようにそう問われ、少女は少しの迷いと戸惑いを覚えつつ、覚悟を決めて頷いた。

「分かりました! 私は今日から貴方様の使い魔です!」

 どうせもう死んでいるのだ。ある意味怖いものなんてない。

 そう思って受け入れた少女の言葉を聞いて、レイヴィンは満足そうな笑みを浮かべた。


「そうか。なら、おいでアンジュ」

「っ!!」

 優しく目を細め手を差し伸べてきたレイヴィンの姿に思わず惚ける。

「呼び名がないと不便だろ。今日から、お前の名前はアンジュだ」

「レイヴィン様~、喜んで~!」


 この時、少女はなんて優しい方なんだろうと、なんの疑いもなく彼の身体に飛び込んだのだった。

 その後、使い魔として協力させられることになる内容も知らぬまま。

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