第2話

「へえ。遠野由芽ちゃんって、あの仲良かった子」

「そう」

 僕は実家暮らしで両親と暮らしている。図書館をめぐって文献漁りをする関係で帰宅はいつも遅いが、母さんはいつでも僕の夕飯を用意してくれ、僕が遅めの夕飯を摂っている間は会話をすることが多く、とても仲の良い親子、と近所からもよく言われていた。

 その会話を先に切り出したのは僕だった。遠野由芽、僕と仲の良かった女子──母さんは僕に女性の友人がいることに驚いて、由芽のことだけ殊更に印象深く覚えているようだった。

「あの子、たしか大学三年で突然学校に来なくなったって言ってたよね。会えたってことは今なにしてるかわかったの」

「バイトで生計立てながら県立図書館で読み聞かせボランティアやってた。なんでも、親にも大学中退したこと話してないらしいよ」

「あらまあ。じゃあ親御さん心配してるんじゃない。ちゃんと連絡も取り合ってるのかなあ」

「母さんが気にすることじゃないよ」

「小学校の先生やってるとそういう子に過保護になるもの。由芽ちゃん、透から聞く限りだと感じいい子でしょ。だから余計気になる」

「だからって母さんがどうこうできるものじゃないだろ」

「冷たあい」

 母さんがソファの上で乾いた洗濯物を疊んでいる中、僕は温めたビーフシチューを前に座り、スプーンで立て続けにかき込む。時折パンを浸して炭水化物も摂りながら会話を続けた。

「それにしてもねえ。あなたたち、ちょっとは恋人らしいことしたの。例えばキスしたりとか」

 噎せた。ビーフシチューの味が喉の奥で痛い。

 あらごめんなさい、と言いながら慌てて僕の背中を叩き復帰させてくれる。水の用意もしてくれて、僕は手渡されるなりぐいと飲み干した。軽く息を吐いて苛立ちをぶつけた。

「あのさあ。するわけないだろ。たしかに女子の友達では一番仲良かったよ。でもキスするとかそこまでの仲じゃない。勘違いしないでくれ」

「だって透、由芽ちゃんの話するときすごく楽しそうだったんだもの。今だけじゃないの。由芽ちゃんと学校通ってたときだってまるで恋する男の子みたいで」

 もうそれ以上言わなくていいよ、と恥ずかしさに声を荒らげ、僕はスプーンで牛肉の欠片を口に含むと勢いに任せて噛み砕いた。よく煮込まれた牛肉は苛立ちもひらりとかわしてしまうようにやわらかく、それがまた僕を複雑な気分にさせる。

 唐突過ぎる成り行きで調査させてくれなどと申し込んだはいいが、少し成り行きに任せすぎた感はあった。大学ではよく会話した仲だが二年間も音信不通状態で、恋人でもなければ特別親密な関係だったというわけでもない。同じ学部で、同じゼミで、同じような研究をしたがっていたから会話が弾んだというだけだ。仲が良いと言っても、言ってしまえばそれだけの繋がりでしかなかった。今日、図書館で再会したことでその繋がりが復活したのだと楽観してしまえば良かったのだが、彼女は確かに言った。「本当はちょっとどんなふうに接したらいいかわからなかった」と。僕自身「全然昔の由芽」とはぐらかしていたが、実際僕だって彼女を見かけたときはどんなふうに声をかけるのが正しいのかわからなかったぐらいだ。彼女がどんなふうに僕を思っていたのかわからないが、デリカシーの無い発言もしてしまったし、来週からどんなふうに彼女と接したら良いのか。

 はあ、と息を吐きながらスプーンを動かす僕に、母さんはなにかを言おうとした。

 しかし、それは途中で待ったをかけられたようだ。

「ただいま」

「あらお父さん。今日は随分早い帰りなのね」

「思ったより会議が早く終わってな。透もおかえり」

「ああ、おかえり。夕飯は僕が温めたからすぐ食べられる」

「ああ」

 僕と父さんは向かい合って座る形になった。ネクタイとシャツのボタンをいくつか外し、「研究の進捗はどうだ」と訊ねてくる。父さんは僕の修士論文の内容が気になっているので、このように問うのは当然だ。

「まあぼちぼちね」

「聞いてよお父さん。透ったらあの遠野由芽ちゃんに会ったんだって、図書館で」

「ほう、そうなのか。良かったじゃないか」

 決して言うまいとしていたことを母さんが早々に切り出してしまう。父さんも僕が由芽について話していたのはよく知っているから、これも当然のことだろう。仕方なく帰宅してから母さんに話したことをそっくりそのまま父さんにも説明する。すると、父さんは唸った。

「なるほど。大学生の金銭的な困窮での中退はここ数年増加傾向にあると統計でも示されていたな。しかし由芽ちゃんがそんな状態だったとは。いい子だからきっと家柄も相当なものだろうと思っていたよ」

「父さんは人格を家柄で決めるのか」

「いいや違う。ただ、やっぱり家が荒んでいるとその子供も荒んでしまう傾向が高いという数字がちゃんとあるんだ。透の修士論文だってそれ関係だったろう。ちゃんと調べておかないとな。それに今国会でやってるが、扶養の税控除の法律が改正されそうなんだ。俺も参考にさせてもらう部分があるかもしれない」

「……わかってるよ」

 とは言うものの、父さんの参考として使われるために修士論文を書くのではなく、あくまで修士課程を不足なく修了するために書くのだが、きっといずれそうなることも否めないはずだ。少し不本意だが適当に頷いておいた。

 結局、その日の家族での会話はそれで終わった。

 風呂に入ったあと、僕は自室でパソコンを立ち上げその画面をぼうと見つめていた。由芽がボランティアをする時間は土曜日の十四時から十五時頃だ。県立図書館のホームページを検索して少し詳しいことを知ろうとしてみると、そんな情報があった。

 社会学の修士論文で扱うのは幼少時の倫理道徳教育についてだ。例えば家庭状況における子どもへの影響とか、幼少期や少年期の読書がどんな人格形成につながるのかとかいった、統計上の調査に基づく研究。僕は取り立てて子どもが好きというわけではない。ただ大学生活を送っていくにつれ、どうして僕はこんな性格になったんだろうとか、どうして周りの人たちはああいった性格で平気でいられるんだろうとかいった、素朴な疑問を突き詰めて考えてみたくなっただけだ。つまり、僕は僕のことが知りたくなったからわざわざ院まで進んでこのテーマで研究することにした。それ以外にはない。

 白羽の矢が立ったのは県立図書館の読み聞かせボランティアで、これは所属する研究室のゼミ担当教授が教えてくれた。県立図書館の読み聞かせボランティアの時間帯は決まっていたが、誰が読み聞かせるのかということまでは明記されておらず、由芽と出会えたのはまさに偶然と言っていい。

「由芽がなあ。まさか大学中退で、バイトしながらボランティアなんて」

 なんともなしに呟いてみて、よくよく考えてみればどうしてあれほどまでに仲の良かった僕と由芽が図書館で出会うまで音信不通だったのだろうか。仲が良かったのだから連絡のひとつくらいしても良かっただろうに、なぜか僕も由芽もそのことを成り行きで流していた。同じゼミでしばしば語り合うこともした。そして、僕も彼女のことをよく家族に話していたのに。

「今日は先行研究だけまとめて寝よう」

 思考が堂々巡りに陥ってしまうかもしれないことに気づき、僕はそうしてパソコンに向き直った。

 その日の作業はあまり捗らなかった。

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