(5)
「発情期」――。「オメガバース」において、外すことができないと言ってもいい要素。
それが訪れる年齢は作品ごとに異なるものの、おおむね一〇代の後半から二〇代の前半にかけて始まることが多い、とされる。
そこに早熟で予想外に早く発情期が訪れたり、あるいは二〇代の半ばを過ぎても訪れなかったりといった、イレギュラーな展開で物語が盛り上がったりもする。
ちなみにこの世界のわたしはまだ発情期は迎えていない、ということは昨日の京吾との会話からわかっていた。
わたしは今年で一七歳になる。「オメガバース」の定石で言えば、もう発情期が始まっていてもおかしくはない年齢だ。
ちなみにネットでオメガ性の発情期について調べたところ、思春期の後半、二〇歳前後ごろに始まるのが一番多いパターンらしい。
……ちょっと熱っぽいなーとは思っていた。
けれども深くは考えていなかったのは、今のわたしからすると、やはりどうしてもオメガの「発情期」は遠い国の存在のようなものだったからかもしれない。
なんとなく腸のあたりの具合が悪い。
違和感はそんなところから始まったのだが、今思えば様子がおかしかったのは腸ではなく子宮のほうだったのだろう。
この違和をわたしは単純に腹の具合が悪いのだと思って、昼休みが始まると同時にトイレへと駆け込んだのであった。
そして出るものが出ないのに違和感は続くので、しばらくしてから気づいた。
……これは、「発情期」、というやつなのでは――と。
それに気づけたのが昼休み中、しかもトイレの個室の中だったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
わたしはあせった。当然あせった。
だって「発情期」はだいたいエッチな展開へ持って行くためのギミックになり得るからだ。
エッチな展開……すなわち攻めとのセックス。
小説の読者としてわたしはいつだって「それ」を待ち望んでいた。そして「それ」がきたら萌え転がって喜んだ。
しかしまさか自分になど萌え転がれるわけないし、にやけ面にだってならない。なれない。
だらだらと背中と心で冷や汗をかきまくっているのがわかる。こうなるといよいよ腹を下したときと変わりのない反応だ。
わたしはブレザーのポケットからスマートフォンを取り出した。
しっとりと汗をかいた指でチャットアプリを立ち上げて、ざっと並んだ家族、友人、恋人――京吾の名前を眺める。
ここは普通に考えて、さくらか弥生にメッセージを送るところだろう。
通学カバンの中には抑制剤が入ったピルケースがある。記憶を失う前のわたしが入れたものだ。昨日、寝る前にカバンを点検して確認したので、間違いなく今も通学カバンの中にはピルケースがあるはずだ。
それをさくらか弥生に頼んで、持ってきてもらえばいい。
発情期が実際にきてから服用して、どれほどの効き目があるかはさだかではないが、飲まないよりはずっとマシだろう。
フェロモンを垂れ流した状態ではトイレから出るのは困難だろうし、こうなっては自宅に帰る以外の選択肢はないはずだ。
……しかし! しかしである。
これは絶好のチャンスではないのか――?
わたしと京吾は未だに肉体関係にはない。キスまでの、大変清いお付き合いを続けている。
キスだけでも飛び上がるくらいうれしいのだが、それでもセックスに持ち込みたい、と思ったことはある。
だってわたしは思春期の女なのだ。男子高校生ほどではないかもしれないが、エッチなことで頭がいっぱいなのだ。一八歳未満なのにエッチな小説を読んでしまうダメなやつなのだ。ジュブナイルポルノ小説とかも持っているのだ。
けれどもそういうことを女から言ってもいいものか、と考えて二の足を踏んでいた。
ことセックスに関してはやはり男性はリードしたいものではないのか? という、聞くひとが聞けば余計な気のやり方をした結果が、二の足を踏むということに繋がっているのである。
それに単純に恥ずかしさが先行する。セックスはやはりトイレと同じく秘めておきたい部分なのだ。わたしにとっては。
しかし! しかしである。
発情期――発情期ならば、エッチなことを望んでも、これはもう本能が強く出ている状態なので、仕方のないことという風になるのではないのか?
つまり、恥ずかしさを隠して京吾にエッチなことを言っちゃえる、絶好のチャンスなのではないか?
「発情期だから仕方ない」! そういうことになるのではないのか!?
わたしは下心――もとい、スケベ心全開で京吾にメッセージを送った。
さすがに「スケベしようや」的な下心丸出しのテキストは送信しなかった。単純に、「発情期がきたみたい」とだけ送って様子をうかがうことにした。
「おっ」
にやにやと口元がにやけているのがわかる。
エッチ。スケベ。セックス。発情期だからなのか、わたしの頭はピンク一色で、そういうことばかりが脳裏に浮かびまくる状態になっていた。
スマートフォンがバイブレーションして、メッセージの着信を告げる。
『だいじょうぶ? 今どこ?』
『わたしのクラスのすぐ横のトイレ』
『抑制剤は?』
『カバンの中』
『じゃあ持って行くね』
こちらがなにも言わずとも、必要なことがすらっとわかってしまうのは、長年の付き合いのせいだろうか。
なんでさくらや弥生のほうに連絡をしなかったのか、とか、そういうことを京吾は聞いてこなかった。
そこまで考えが回らなかったのかもしれないし、あるいはもしかしたらわたしの下心を見抜いているのかもしれない。
――だとすれば、エッチしちゃうのか?!
わたしの頭はとかく桃色だった。
とにかく今は、やりたくてやりたくてたまらなかった。
発情期だと自覚したらなおさら、性欲が増したような気がした。
気がつけば呼吸は浅く速くなっており、さながら獲物を前にした変質者のような熱い吐息をもらしている。
そうだ、京吾がくるなら下着を上げておかなければ。そう思って体を動かしたときに、わたしは股のあいだがどうしようもなくアレなことになっていることに気づいた。
わたしの体は臨戦態勢に入っていた。いつでもOK。早くきてくれ! そんな感じである。
そんな風になっているものだから、わたしの脳裏をよぎるのも一八禁な展開ばかり。
わたしは処女だが今は情報あふれるネット社会。耳年増ならぬ目年増状態のわたしは、現実感があるんだかないんだか、よくわからない妄想を続けた。
そんな妄想に終止符を打ったのは、木製の白い扉を叩くノック音。
それからやや間をあけて、わたしのスマートフォンがメッセージを受信する。
『きたよ』
「京吾……」
わたしは速くなった呼吸を、どうにか整えようとした。
心臓はバクバクと大きな音を立てて全身に血を送り出している。
頬が熱かった。手のひらを当てると、ひんやりとした感触がして、気持ちがいい。
パンツはちゃんとはいている。……クロッチ部分は、しっとりとしめっていた。
何度か浅い呼吸を繰り返して、わたしはトイレの鍵を開けた。
蝶つがいが悲鳴のような音を立てる。生徒たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。けれども、今、この女子トイレにはわたしと京吾以外にはいないようだった。珍しい。女子がたむろしていてもおかしくはないのに。
そんなどうでもいいことへと思考を飛ばしつつ、わたしは開いた扉から顔を出した京吾を見やる。
ドキリ。心臓が軽く跳ねた。もうこれ以上は速くならないだろうと思っていた鼓動が、ギアを変えたようにスピードをアップさせる。
顔だけじゃない、全身が熱くて熱くて仕方がなかった。
同時に、あそこがアレしてソレしてナニして、小惨事になったのがわかった。
痴女にでもなったみたいに、京吾に抱きついて犯して欲しいと懇願してしまいそうだった。
が、しかし、なけなしの理性をかき集めて、わたしはそんな欲望を頭から抑え込んだ。
バカなわたしにだってプライドはあったし、TPOはわきまえている。ここは学校だ。学校のトイレでコトに及んだりなんてできない。
どうにか冷静になろうとするが、一方で頭の半分はすでにピンク色の妄想でいっぱいだった。
「かえちゃん、だいじょうぶ……じゃ、なさそうだね」
「まあね」
わずかに眉を下げる京吾に、いつもの調子で返したつもりだったが、その声はかすれていたし、上ずってもいた。
カッコワルイ、と思うと同時に、まるで京吾を誘っているような声音を出した自分にびっくりした。
けれども京吾はそんなわたしの変化を、いちいち指摘したり、からかったりはしなかった。
スラックスのポケットから黄色のピルケースを取り出して、わたしに差し出す。
よく見ると、左手にはミネラルウォーターのペットボトルがにぎられていた。大変準備がいいことである。さすがは京吾。そんなことを思いつつわたしは「ありがとう」と言って、京吾からピルケースを受け取った。
ケースのフタをあけて、白い錠剤を二錠、手のひらに出す。
「はい」
京吾から渡されたミネラルウォーターはすでにフタが開いていた。
わたしはそれを受け取って、ちょっとだけ水を口に貯めて、次に錠剤を放り込む。それからペットボトルをぐいとかたむけて、一度に薬を飲み込んだ。
ミネラルウォーターの冷たい水が、舌を通り、喉を通り、食道を通り、胃へと落ちる。
その冷たさでわたしは少しだけ理性というものを呼び覚まされたような気になった。
具体的には、頭を支配していた桃色の妄想が、いかに滑稽なのかを遅まきながら理解した。
確実にプラセボ効果だろうが、抑制剤を飲んだという事実を受けて、わたしの体はちょっと落ち着いたようだった。
「立てる? 無理そうだったら保健の先生呼んでくるけど」
「……だいじょうぶ。自分で行ける」
「まあ、ついて行くんだけどね」
「なんで?」
なんとなく、今までに血迷ったスケベ心丸出しの妄想を、空想の京吾相手に繰り広げていた事実が恥ずかしく、わたしは突き放すような言葉を口にしてしまった。
しかし京吾は気にした様子はなく、けろっと「危ないからね」と至極まっとうな意見を述べる。
わたしは恥ずかしさを隠して、「そっか」と返して言葉を続ける。
「ごめん。それもそうだね。わたしなんかのフェロモンで誘引されちゃうひとがいたらかわいそうだもんね」
「かえちゃん、『なんか』とか、そーいうことは言わない」
「……ごめん」
手を差し出してくれた京吾の優しさに甘えて、わたしは彼の手のひらに自分の手を重ねた。
ぐいっと腕を引っ張られて、わたしは思ったよりもおぼつかない足取りで立ち上がる。
発情期のせいなのだろうか? 京吾に触れられている部分の皮膚が、なんだかぞわぞわとした。
不快な感覚ではない。むしろ、それは快感に近かった。
「そういえば、どうして僕に連絡したの?」
「あー……」
保健室まで連れて行かれて、養護教諭が車を回してくるまでのあいだに京吾がそんなことを聞いてきた。
わたしは正直に話そうかどうか迷って、結局取り繕うのもめんどうくさくなって、そのまま――しかしマイルドに――話すことにする。
「だって、京吾はわたしの恋人だから」
「なるほど」
「……あのさ、あのままわたしが誘ってたらどうした?」
「どうもこうも」
京吾はごく当たり前のことを言うように、笑った。
「『運命のつがい』がいるんだし。かえちゃんとは、今はどうこうなる気はないよ」
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