俺と彼女のジャスティス・コンプレックス

soldum

プロローグ

夢(前)

 それが珍しい事態でないことは、子供心にもよく理解していた。


 大人達が震え上がり、小学生の俺――三上みかみあらたは両親に抱え込まれるような形で抱きかかえられていた。数分置きに銃声が響き渡り、高い天井に反響する。

 何かが破裂するような音は少なくとも人を撃ち抜く音と連続しないから、音だけでもそれが威嚇だとわかる。威嚇射撃なんて言葉も意味も知らなかった俺にだって、それが人を害するためのものか、そうでないかは感覚でわかった。


 悪意と敵意と害意の違いは、いざ直面してみれば泡立つ肌と跳ねる心臓が教えてくれる。それはつまり、自分の命があとどれだけ長らえ得るかという本能からの警告だった。


 十メートル離れていない場所に暇そうに腰掛けている覆面の男からは、害意は感じられない。悪意に類するものは感じられたが、それも鋭利さが足りない。俺や両親を含め、俯いて震えている誰に対しても、銃口を向ける意図は感じられなかった。


 少なくとも、いまはまだ。


 パァン――――。


 また銃声が鳴った。俺たちに見える場所での発砲ではない。治安の悪化に応じて銀行のセキュリティも多層化され、俺たちがいる正面のロビーを突破した先にもいくつも厳重な警戒が敷かれている。俺たちとは違い、そっちにいる人間には命の保証は無い。

 銃声はずっと奥の方からだ。そろそろ最後の壁を突破する頃かもしれない。

 それほど不安は無い。銀行がどれだけ損害を受けようと、そんなのは日常茶飯事だ。そもそもこの時の俺は銀行と自分の生活との間で、どんな理由と事情からどんな金が行き来しているかなんて知る由もなかったかもしれない。


 むしろこの時の俺は、期待していたのだと思う。


 世界には、救世主がいると信じていたから。目に見えない奇跡ではなく、進化と成長の歪みによって生まれた世界の異分子。自分がいかに異常であろうとも、望むと望まざるとに関わらず手にしてしまった異能の力を、世界の規律と正義を守ることに命を捧げる戦士。


 ヒーロー。


 古臭く、カビ臭く、誰も信じていなかった正義というものにいつからか強烈に息を吹き込んだ、そういう存在が。


 ロビーの扉が開いた。


「お待ちかね、ヒーローの登場だ」


 ライオンをかたどった毛皮のガウンは獣王の証。

 数匹の大型犬を従え、ガウンについた獣面のフードを目深にかぶって顔を隠した大柄な男。わずかに見える口元からはひときわ大きな一対の犬歯が覗き、男自身がまるで獣のような覇気と生臭い生気に満ちていた。


 ヒーロー、ワイルドガウン。


 俺の憧れだった。テレビを通して何度もその姿を目にした。生まれ持った獣使いの能力で動物を従え、事件を颯爽と解決し、野性的な歯を見せて笑い、ガウンを翻して立ち去る。まさしく彼はヒーローだったのだ。


 ロビーに控えていた数人の男達の間に緊張が走る。担いでいた銃を構え直し、男と足下に控える犬達に向けて構える。


「そいつで俺を撃つのか? 悪党さんたちよ」


 ワイルドガウンがフードの下から挑発する。それに便乗するように犬達がばうばうと荒っぽく吠えた。

 覆面の強盗団はまだ動かない。ここまでの手際からわかるように、この一団は素人ではない。ヒーローを見たからと言って我を忘れて銃をぶっ放すような愚策に走ることは無かった。


「……ワイルドガウンだな」


 男達の中から一人、声を上げる者があった。他の仲間と同じく覆面で顔を隠しているが、服は軽装で、隙間からのぞく肌は浅黒く日焼けしている。奥へ向かったリーダーらしき男からこの場所を任されていた男で、立ち位置は入り口のワイルドガウンから最も遠い。恐らくはこのロビーに残っている連中の隊長格だ。


「そうとも。俺を知ってるなら話は早い。奥の連中に伝えるんだ、ヒーローが来たから降参すべきだってな」


「はっ、ヒーローだと? その獣臭い口でよく言う。お前はライオンじゃなく、ハイエナだろう。一匹のハイエナを恐れる理由なんぞどこにも無いな」


「……どういう意味だ。俺がハイエナだと?」


 ワイルドガウンの口元から笑みが消える。対照的に、覆面の男はその真っ黒な覆面越しにもわかるほどにやりと口元を歪めた。


「違うってのか? 他のヒーローの仕事を掠め取ってばかりで、自分で獲物を仕留める気の無い、横取り屋が」


 ワイルドガウンの顔が引き攣ったのは、口元だけではっきりと読み取れた。それは今にして思えば、いや今でなくとも気付きようはあったろうが、ともかく、自分の最も知られたくないもの、虚栄の陰に隠れた醜い姿を暴かれた者のそれだった。

 もちろん、そのときの俺にそんな感情の機微を理解するだけの頭も、感性も無い。理解できたのは、ワイルドガウンの悪意が奇妙なほどに増長し、害意へと至ろうとする、その予感だけだった。


「貴様、その口を閉じろ」


 ワイルドガウンが静かに、低く唸る。

 男はせせら笑うと、それ以上何かを言うでもなく、部下達に向けて手で合図した。

 ガジャッ、と複数の銃の安全装置が外れる音が重なる。だが、発砲の合図よりもワイルドガウンが吠えるのが早かった。


「喰らいつけェ!」


 ワイルドガウンの叫び、その反響を打ち消すように傍に控えた犬達が吠え声を上げ、一斉に飛び出す。その数は全部で五匹。この場に留まる男達より一匹多い。

 あぶれた一匹は先行した四匹の中でも特に大柄な犬に追従する。二匹の向かう先は、先ほどワイルドガウンを罵った隊長格の男だ。


「うぉ!」

「よせっ、くそ」

「この、来るな!」


 パァン、パァン!

 三人の部下達の銃声、軽々しくも凶器となりうる音がロビーに響く中、二匹に狙われた隊長格だけは銃口をワイルドガウンから逸らさない。


 ズバァン――――。


 迫ってくる犬に動揺して無駄玉を消費することなく、狙い澄ましたたった一発の発砲音だけが音高く響く。他の連中の銃声とは、一段高さの違う音に聞こえた。


「がふっ」


 銃弾はワイルドガウンの右肩を撃ち抜く。仕留め損ねたのではない、それで十分だと判断したのだ。

 そしてその判断は、正しかった。


「ぐ、ぎっ」


 ワイルドガウンの歯がぎりりと音を立てる。歯を食いしばって悲鳴を堪えたのは、彼の最後の挟持だったのかもしれない。しかし、それが果たして意味を成したかどうかは怪しい。


 肩を撃ち抜かれた瞬間、それまで猛々しく吠えて強盗団の連中に喰らいつこうとしていた犬達はキャインキャインと悲鳴のような甲高い声を上げ、銃声に怯えて先を争うように逃げ出していく。


「あ、こら、待てお前ら! くそっ、戻れ腰抜けども!」


 ワイルドガウンは唾を飛ばして犬達を叱り飛ばすが何の効果もない。後にわかったことだが、動物を操るワイルドガウンの能力は本人の精神に乱れがあると極端に弱まるらしい。


 つまり事の真偽は別にして、隊長格の挑発に心を乱し、肩を撃ち抜かれて恐れが精神の表層を塗り籠めた時点でワイルドガウンの敗北は決まっていたわけだ。

 犬達が逃げ出せば、一人で戸口に立つワイルドガウンの武器と盾は失われている。つまり、重火器で武装した四人の男達を阻むものは何も無いということだ。


「……百獣の王は、お前にゃ似合わねぇよ」

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