二人だけの特別なルール



 しかしよくよく考えると夜中に街中へ出るのは危ないのではないか。


 というあまりに単純なことに気づくのに、宿を出てから十分の時間が必要だった。


 しかし今さら宿に戻るのも気が進まなかった。夕食の後に部屋に戻る振りをして黙って出てきた手前、すごすごと帰るのもなんだか空しい。


 特殊部隊さながらの警戒歩術で壁を伝い、アキラは慎重に教会へ進んでいく。


 魔獣が出るのはほとんどが深夜だという話だし、こうして甘い誘惑に誘われているときほど襲われるのがお約束だ。


 しかし、シスターはきっと一人で自分が来るのを待っている。アキラの恐怖を掻き消すのは、彼女の期待を裏切られないという想いからだ。


「シスターを一人にさせられないもんな。だから別にシスターとどうこうしたいとかいうわけじゃなくて、うん、これはそういうことなのだ」


 誰にともなく言い訳がましく説明してアキラは夜の街の行軍を続ける。


 やはり夜中は警戒して外に出てこない人が多数のようだ。コルトリの通りにはガス灯や廻因鉄製の街灯が所々に立っており夜の闇を和らげてくれるが、今はその下を通る人影は全くなく、光の静けさがそこにあるはずのない気配を醸し出す。


 夜の街の中では光に照らされることが誰かに見られているのと同じような気がして、アキラは極力影の道を選び自分の気配を絶つことに努めた。


 教会も近付いてくると夜の寒さが肌を撫でてきたことに気づき摩るように腕に触れる。無事に着いたことに安堵し、緊張で忘れていた肌感覚が戻ってきたのだ。


 見上げれば月は丁度教会の高い尖塔の真上に来ている。もう何度か見ているが、地球のものより大きくわずかに赤みがかった異世界の月は、どこか有機的で、脈動すらしているような錯覚をしてしまう。


 教会の中に入るためには、正面扉と裏手にある簡易扉のどちらかを使うしかない。シスターの居住スペースには裏手の方が近いはずだ。


 そう思って回り込もうとしたときに、ふと気づく。


 両開きの正面扉の片方が、わずかに開いてズレている。


「……これは、正面から入っていいってことかな」


 いくらなんでも無防備な気がするが、シスターにも考えがあってのことだろう深く考えずに手をかけた。


 ギギ、と蝶番の鳴る音がして数十センチ空いた扉から身体を滑り込ませて中に入る。


 シスター・フィアナはいつもの修道服で、祈りの格好で講壇の前に立っていた。燭台の灯りに光が揺れて、映る影が踊っている。


「シスター。すみません、遅くなってしまって」


「ああ! アキラさん!」


 アキラを視認すると飛び込むように抱きついてきて深く包容してくるシスター。暖かく柔らかい感触に心臓が高鳴るが、努めて冷静を装った。


「ずっと待っていてくれたんですか?」


「ええ。アキラさんを待ち望んでおりました」


 シスターの瞳の瞳孔が、自分の目を真っ直ぐに追ってくる。


 経験したことのない熱い視線に、アキラは直視して見返すこともできない。


「じゃあ、まずはゆっくりお茶でも……」


 慣れない状況から逃げようとするアキラを、シスターは掴み離さなかった。アキラの頭を抱えるように腕を回し、自分の胸にアキラの顔を押しつけるように抱く。


 背の高さの違いからアキラは大分首を屈める形になっているが、シスターの胸に顔全体を覆い尽くすように埋められている格好だ。


「あ、あのっ」


「このまま、このままですよ。アキラさん」


 言われた通り抵抗はしなかった。


 鼻に届く生々しいシスターの匂いに頭がクラクラしながらも、


(まさか、ここで、なんてことはないよな……?)


 教会の広い礼拝堂のど真ん中。致すにしては広すぎるし神聖すぎて落ち着かない気がするが。


 邪な思考を続けているアキラを抱きながら、シスターはアキラの耳元で甘い声で説く。天使を抱いているように。慈母の声で。


「アキラさん。あなたはここに初めて来た時から善行を重ね、子供たちを守り、正義を貫いてくれました」 


 シスター・フィアナの優しく潤んだ囁きに静かに耳を傾けながら、


(学校の集会で表彰されてるみたいな言い方だな) 


 シスターの胸から昇る香の匂いに包まれながら内心で苦笑するアキラ。シスターらしい堅い伝え方だ。でもきっと、自分が人に想いを伝えるときは、似たような形になるだろうな、なんて考えていた。


「あなたは他の人間とは違う。生活のために仕方なく善行を行う人間ではなく、心から善行を欲し、無私の精神で市民に貢献しようという志を持っている。あなたは正しきを愛し、悪しきを嫌悪できる数少ない人間です」


 今夜ここに来たのはシスターとの、まああまり人には口外できない展開を期待してのことだったが、その気持ちすら差し置いてしまうほどに、今の言葉にこそアキラは心が揺らされていた。


「本当、ですか……? 僕自身がそうだと……?」


「ええ。もちろん、あなた自身が、ですよ」


 シスターのまるで女神の宥恕の声に、アキラは噐から漏れ出る水のように、自然と口から言葉を吐露していた。


「僕は、苦しんできました。やりたくないことをさせられて、理不尽な苦痛に耐え続けてきた。小さい頃から、いや、生まれた瞬間から間違った評価をされて、周りの人間はそれだけを信じていた。僕は、正しく理解されたかったんです」


「わかります。あなたのような方はえてして誤解されやすいもの。ずっと苦杯を嘗めてきたのですね。でも、もういいんです。アキラさんは、十分苦しんできました」


「ああ、シスター……」


 感涙しそうだった。目頭にこみ上げてくるものを、男の見栄で必死に抑えた。


 認められたことが心から嬉しい。母親のように、アキラに天使がいることをシスターは知らない。なのに、彼女はこれほどまでに自分のことを理解してくれている。


 真実の救いとは、自分の真の理解者が、こうして的確な言葉で表現してくれることを言うのだろう。


「私ならアキラさんを〈正しく〉理解できる。そのためにここにいるのですから」


「その言葉だけで、僕はもう救われたような気持ちです。ここに来てよかった。ここに居場所があってよかった」


 しかし、シスターは軽く首を振ってみせた。


「いいえ。まだ不十分です。私は、あなたをさらに一段階上の存在へと押し上げたいのです」


「一段階、上の存在?」


 意味がわからず聞き返すと、妖艶に、ふふ、と笑い声をあげるシスター・フィアナ。


「ええ。あなたにはその資格がある。今、あなたが選ばれた人間としてここに立つ資格が」


「僕が、それにふさわしいと?」


「ええ、ですが、アキラさんは今一度殻を打ち破る必要があります。蛹が蝶になるように。処女が破瓜をするように。証を、私に見せてください」


「ああ、嬉しいです。どうすれば、いいですか? 僕は証を見せたい。証明したい」


「こうするんです」


 アキラの返答を聞くと、シスターは唇が触れあいそうなほどに顔を近づけてきて、直前で制止する。


 見つめ合ったまま手探りで手を握られて、引っ張られるように導かれたのは彼女の下腹部。


「さぁ、もっと〈善きこと〉をしましょう?」


 そこで触れさせられた――ヒヤリとした硬質の感触。


「へっ?」


 指を重ねられて握らされたそれを自分の顔の前まで移動させて確認する。


 それは、一振りのナイフだった。


 バターナイフやペーパーナイフのような頼りない鉄じゃない。皮を裁ち、肉を裂くためにある大振りで厚いものだ。


「え? なんっ……」


 もっと強い抱擁を、人肌の温かさを、柔らかい感触を期待していたのに、真逆のものを渡されて、困惑に止まるアキラ。


 シスターは意に介さずアキラをあっさり放し、踵を返すと優雅に教会の隅へ進む。


「あなたのためにもう一人は残しておきました」


 そこにあったのは、赤い布がかけられた物体だ。シスターがめくると、そこには縮こまった男が一人姿を現した。


 後ろ手に縛られ、両脚も縄でぎちぎちに拘束されている。さるぐつわもされていて、声を発せないらしい。何かを息荒く主張してるのは文句なのか助けなのか、アキラには判断がつかなかった。


 男の顔にアキラは見覚えがあった。昨日、広場に現れたあの男たちの先頭にいた太った男だ。自分とシスターの逢瀬を見守る存在としては、あまりにもデリカシーがなさすぎる。


 立ち尽くしたアキラの背から、シスターが覗き込みように顔を寄せ、囁く。


「さあ、あなたの番ですよ――殺しなさい」


 告げられた言葉に、アキラの思考も止まる。


「え? いやいやいや、ちょっと、ちょっと待ってください」


 頭の整理を懸命に続けているアキラに、シスターは怪しく口角を上げて笑って続けた。


「言ったでしょう? 今夜は特別なルールを教えてあげますと」


「これが、その特別なルールだって言うんですか……? この人を、殺すことが?」


 シスターは、ええ、と軽く頷く。


「アキラさんが理解されないのは当たり前です。世の中には、こんなにも〈悪しき〉人間で溢れている」


「だ、だからって……」


「どうしました? 何をそんなに怖じ気づくことがありますか?」


「無理ですよ。僕には。こんなこと……」


 拒絶を続けるとシスターは短く嘆息して前髪を指先でとく。


「ふぅ。少しがっかりです。アキラさんなら、私の言うことを素直に聞き入れてくれると思っていたのに」


「は、ははは……。いくらなんでもそんなことを聞けるわけないじゃないですか。やだなぁ」


 空笑いして、シスターの言っていることを冗談で済ませたかった。


「きっと、まだ怖がっているのですね」


 だがどこまでも、酷薄なまでに、シスターは真剣だった。


「僕が、何を怖がってるって、言うんですか……?」


「わかりませんか? アキラさんもこちら側に来ればわかりますよ」


「こちら側……?」


「街が閉鎖されたのは、〈悪しき〉を炙り出すのに有効でした。そして同時に、アキラさんのような〈正しき〉を見分けることもできた」


 シスターはその二つの言葉を強調するように続けた。


「極限の中においてこそ人間は真価を問われる。市民は見事に分かれてくれました。アキラさんのように苦境の中にいてこそ善行を成そうとする人と、この男たちのようにただ自分たちの鬱憤を晴らすために子供たちを襲おうとした愚か者たちに」


 男に侮蔑の目を向ける。男は会話が聞こえてるのだろう。シスターの目線に戦くように身を震わせた。


「後は簡単です。炙り出された〈悪しき〉人間を刈り取るだけでいい。それだけでこの街は清廉に保たれる。〈正しき〉人間だけが残り、正しく報われる社会ができあがる」


「刈り取る……僕が……? それが、こちら側……?」


「しかし、〈悪しき〉人間はこの街一つとってもあまりにも多く、魔人から力を得た私だけでは手に余っていました。だから同志が必要でした。どこまでも善に敏感で規則に忠実な〈正しき〉人間であるアキラさんのような」


「魔人って……。シスター、あの、ほんと、僕、話が見えなくて」


 わざとらしく話の腰を折るようにそう言いながらも、アキラは自覚があった。理解できないふりをしているという自覚が。認めたくないことが明らかになりそうで、そこから逃げだそうとしている自覚が。


 シスターはアキラの逃避を許さない。アキラの躊躇いを遮って、シスターは告げる。


「なら、減らしましょう? 一緒に。この私たちだけに赦された暴力で」


 あくまでもにこやかに、そしてどこか幼児性を帯びた声で、シスターはアキラを誘う。


「僕たちだけに赦された……暴力?」 


 暴力に赦されるものも赦されないものもあるのかと、アキラには理解不可能な話だった。


「この男たちのような己のための暴力ではなく、善良な人間のための、暴力を制するための暴力。上位者としての、超越者としての、超克者としての、暴力です」


「い、いや……そんなもの、僕には……」


「あなたのような〈正しき〉人間が、調和には必要なのです。人間の調和とは、無意識的に自然状態で倫理規範を守れる人格を持つ人間の間にのみ訪れる。それができるだけの人間だけが残ればいい。〈悪しき〉人間など誰も欲していない。良心の欠如した人間など、誰が必要とするのでしょう」


「っ……!」


 それは、どっちの僕のことですか。と聞き返す勇気はなかった。


「重ねて訊きます。こんな人間に、生きる価値はありますか?」


 子供たちを襲おうとし、鬱憤晴らしにアキラを殴り続けた男は、自分が迫害される番になれば悲哀に満ちた目を向け恐怖し、保身を懇願する顔をアキラに向ける。


 アキラは答えられなかった。


 シスターは沈黙を否と受け取ったようだった。満足そうに微笑み、続けた。


「アキラさん? これが最後の通告です。私に見せてください。あなたが踏み越える瞬間を。あなたが人間を乗り越える瞬間を。私と一緒に、〈正しき〉を選び取るこちら側へ。それができたら、私はあなたを最大の抱擁で迎え入れてあげますから」


 シスター・フィアナは慈母の笑みで腕を大きく開き、胸で迎え入れるような仕草でアキラを誘う。


「僕は……、僕は――」


 ナイフを見下ろした。あまりに直接的すぎる天使の姿がそこにある。


 魔獣呼応者、フィアナ・グラーニャに、アキラは気を抜かれたような顔で答えた。


「僕は………………できません…………」


 頭の中に天使がいるから、という問題ですらない。シスターの話は常軌を逸している。自分に虐殺の一端を担えと言われて頷けるはずもない。


 意固地なアキラに、シスターは見るからに肩を落としていた。


「ああ、そうですか………………………………………………」


 彼女の俯いた沈黙が、アキラに怖気を誘う。


「……わかりました、わかりましたわかりましたわかりましたぁっ!」


 語勢を上げていくシスターらしからぬ怒声がアキラをたじろがせる。


「シ、シスター……?」


「もういい。あなたのような卑怯者はいりません」


「卑怯って、僕は当然のことを……」


「あなたは嫌だ嫌だと反論ばかり繰り返し行動しない怠け者。必要な暴力を他の誰かに委託し、自分だけはその責から逃れ続ける臆病者。これが卑怯でなくてなんだというのですか?」


 シスターの背後から立ち上る黒い影。まるで彼女の負の感情を表現しているかのようにそれは広がり立ち上っていく。


「ぼ、僕はそんなつもりは……」


 なおも反駁しようとするアキラを、シスターは冷たく見下ろす。


「あなたは〈正しき〉を盾にして怠けて生きているだけの、あの男たちにすら劣る最低の存在です」


 黒い靄がシスターの背後に広がりきったとき、彼女は片腕を高く掲げて高らかに招呼する。


「来なさい、白獅子王!」









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