(3)

「行水は俺が家にいるときにしたほうがいいな」


 スーリが泣き止んだころ、そういう結論に落ち着いて、ラシードはもう一度彼女の頬に残る涙をぬぐってやった。


「もういい時間だ。そろそろ眠いだろう」


 そう言ってラシードはスーリから離れようとしたが、困ったことに彼女は控えめにぴたりとくっついている。ラシードの腕の中から彼の顔を見上げるスーリの目は、不安の色に支配されていた。未だに残る恐怖心ゆえに、彼女からすると絶対的に安全なラシードから離れたくないのだろう。スーリのそのいじらしさに、ラシードは再び彼女をかき抱きたくなった。


「……いっしょに寝るか?」


 恐る恐るそう問えば、スーリは迷うことなくうなずいた。


 スーリを買い取った当初は床に入れていたラシードも、彼女が成長するにつれ自然とやめてしまっていた。そうであるからこうして並んで寝るのは久方ぶりのことである。おのずと体は緊張してしまうが、無理からぬことであった。


 なにせスーリの美貌は今や輝かんばかりだ。体も同年代の男と大差ない骨ばったものから、肉づきのよい柔らかな曲線を描くようになっている。おまけに大人しく働き者と来れば妻にとおとなう男が増えるのは必然と言えた。奴隷を自由民にして娶るのもそうあることではないが、しかしなくはないことであったから、スーリを妻にと考えるのはそう無理のある話でもなかった。


 ラシードの床に潜り込んだスーリの目には、彼の下心を疑うような素振りは見えない。スーリは成長と共に美貌に磨きをかけていったが、しかしラシードに対する態度だけはいつまでも変わらなかった。従順にラシードの言うことを聞き、健気に働いてまわる。そしてラシードを見る瞳はいつだってくもりのない無垢なものであった。


 だからラシードは困ってしまう。いや、参ってしまっていた。


 ずっとひとつ屋根の下で暮らしていれば情は湧くし、愛着も出てくる。そうした相手はラシードを慕い、なついている。歳の差も考えずひと目惚れしてしまった身として、これほどつらいものはない。スーリが純真にラシードを慕うほどに、彼はその本心を告げまいでおこうという思いを強くしていったのである。


 横にある熱を感じると、ラシードはどうにも落ち着かない気分になった。それをまぎらわせるようにスーリへ言葉を投げかける。


「スーリは好いた相手はいないのか?」


 体を横たえたまま、スーリは不思議そうに首をかしげた。


 スーリもそろそろ良い歳である。嫁へやるとなるといささか早いと言えるかもしれないが、しかし恋くらいはすでに覚えていてもおかしくはない。だが彼女がどこぞのだれかに惚れただとか、そういった素振りをラシードは見たことがなかった。


「好いた相手がいるのなら、めあわせる努力くらいはするぞ」


 それは半ば本心からの言葉であり、半分は嘘であった。スーリには幸せになって欲しい。そこに嘘はない。けれども彼女を手放したくはないし、だれかのものにもしたくないというのもまた、ラシードの本心であった。


 しかしスーリはラシードの言葉に、相変わらず首をかしげるばかりだ。それが嬉しくもあり、どこか悲しくもあった。


「……好いた相手ができたら俺に言うんだぞ」


 スーリは要領を得ないのか、戸惑いがちにうなずいた。


 ラシードがスーリのまろい頬を撫でると、彼女は気持ち良さそうに目を細める。こうしているうちは、まだ恋は遠いのかもしれない。そう思うとラシードは少し安心した。それでもどこか追いかけてくるような焦燥は消せはしなかった。終わりはいつか来るのだろう。それがいつかはわからないが、できれば遠いものだといい。そんなことを考えながら、スーリが無事に寝入ったのを見届けたあと、ラシードはようやく眠りについた。



 若い唖の女を捜している、という話を聞いたのはイフサーンからであった。


「どこぞの高家の使用人が捜しているらしい。それでお前のところにはスーリがいるだろう。まあ、そのときはその話はしなかったんだが……お前が気になるなら話をつけてやるぞ」


 どこかおちゃらけた口調ながらも、慎重な様子で聞くイフサーンに、ラシードは少々考え込んでしまった。それでもすぐに「会わせてくれるか?」とイフサーンに聞いていた。イフサーンに否やはなく、明日にでも連れて来てやると請け負って彼は持ち場に帰って行った。



 その男はいささか背の低い初老の男だった。さる高家に仕えていると言う男は、イフサーンが言ったように若い唖の女を捜していると言う。どのような素性か聞いてはみたものの、ラシードの知る相手が男の捜している女でなければ答えられないとかわされた。まあ、そうだろうなと思いつつラシードは男を家へ案内する。


「おお、これは……」


 ラシードを迎えに出たスーリの姿をひと目見るや、男は感嘆の声を上げる。それにおどろいたのはスーリだけではなく、ラシードも思わず男のほうを振り返った。涙ぐんでいるようにも見える男を前にして、スーリは戸惑いがちにラシードを見る。男は白いひげを撫でるとラシードに向かってこう言った。


「間違いありませぬ。まさしく我が家のパリーヴァシュ様です」


 ラシードはスーリを見た。彼女の褐色の目は、じっと初老の男を見ていた。


 男の話によると、ことは以下の通りである。


 男の主人と奥方とのあいだに生まれた一人娘の名がパリーヴァシュと言う。彼女は生まれつき口が利けなかった。それに加えてパリーヴァシュの母は産後の肥立ちが悪く、彼女を産んでしばらくしてから不幸にも儚くなってしまったと言う。それでも主人はパリーヴァシュを恨むようなことはせず彼女を可愛がったが、親戚の勧めもあって新たに妻を迎えた。


 この女が食わせ者で、主人に対しては愛想良く振る舞うのだが、使用人や奴隷に対しては高慢なのでたいそう評判が悪いらしい。特に継子のパリーヴァシュにはずいぶんと冷淡だったそうだ。父親が彼女を可愛がるのも、女のそうした行動に拍車をかけた。


 そしてとうとうこの継母は、父親である主人の留守のあいだにパリーヴァシュを奴隷商に売り払ってしまったと言う。これにはさすがのラシードも開いた口がふさがらない。継子憎しといびり殺す女の話は聞くが、よもや父親が不在のあいだに奴隷商に売り飛ばすとは、いやはやなんともである。


 そして同時にスーリが売り飛ばされたのかと問われたとき、肯定も否定もしなかった理由に合点がいった。あの歳であれば継母に気に入られていないことくらい、言葉にされずとも肌でわかるだろう。


 恐らくスーリはわけもわからないうちに継母に売られたに違いない。となればそこに父親の同意があったかは怪しいものであるし、仮に同意があったにせよ、娘の心境からすればそれは信じがたいことであろう。初老の男が語るところによれば、父親は後妻を迎えたからと言ってスーリを疎ましく思ってはいなかったようであるから、なおさらだ。


「それは……ずいぶんと騒ぎになったでしょう」

「それはもう、上を下への大騒ぎで……旦那様も方々に手をつくして捜しましたが行方は知れず、ずいぶんと落胆しておりました」


 場所を聞けば、スーリの生家はここから馬車で二週間と四日はかかる地にあると言う。彼女はずいぶんと遠いところから連れて来られたようだ。これならば国境を挟んだ異国のほうが近いくらいである。


「そのときはスーリ……いえ、お嬢様はどういった理由で行方をくらませたことになったんです?」

「奥様は勝手に出て行ってそれきりと申しておりましたので、旦那様は家を出てしまったものと。奥様とパリーヴァシュ様は折り合いが良くありませんでしたので……」


 自分で売り飛ばしておいてそ知らぬふりでよく言ったものだと、ラシードは呆れ返った。血が繋がぬとは言えど気に入らぬからと言う理由で娘を奴隷商に売り飛ばせるのだから、とんだ女狐に違いない。そんな女の本性に気づかぬのだから、スーリの父親とやらもずいぶんとおめでたいものだ。


 その当のスーリはラシードに寄り添うように隣で話を聞いていた。彼女の目には見つけてもらえた喜びはひとかけらもなく、ただまんじりともせず緊張しているようである。現に彼女自身の話が出ても、スーリはなにか行動を起こしたりはしなかった。ただみじろぎもせずに、使用人である男の話を聞いている。


「それで、なんでまたこんな遠い地まで捜しに来たのです? 話しぶりからすると一度はあきらめたように聞こえましたが」

「それがですね、パリーヴァシュ様が奴隷商に売られるのを見ていた奴隷のひとりが、旦那様にことの次第を打ち明けまして……」

「なぜ今になって?」

「奥様の行状に耐えかねたようですな」


 つまりは一矢を報いてやろうという感情の結果であるらしい。当然ながらスーリの生家は大騒ぎとなった。


「それで、その奥方は?」


 聞いておきながら、答えはわかっていた。


「……すでに男児をお産みになっておりますので、里に帰すのは坊ちゃまが可哀想だと」


 スーリの目は、だれも見ていなかった。ただじっと無表情のまま、下にある絨毯を見ていた。

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