君にだけ見せる顔

「ただいま」


 葵は一人暮らしのため、家に帰っても家には誰もいない。

 しかし習慣とは恐ろしいもので、家に誰もいないと分かっていてもついただいまと言ってしまう。


 「うん、おかえりなさい」


 今日は違った。

 葵のただいまに反応して、愛莉はおかえりと言ってくれた。


 「……愛莉はお邪魔しますだろ?」


 ただ、愛莉は葵と同じで今家に帰ってきた人間である。だから葵に対しておかえりというのはおかしい。

 愛莉の表情を見るにちょっとふざけただけなのだろう。

 いつもなら軽くデコピンをして済ませる葵だが、両手がビニール袋でふさがっているので呆れたため息しか出てこない。


 「じゃあ、ただいま~」


 本当に幼なじみとは怖いものだと、葵はつくづく思う。

 まるで自分の心が覗かれているのではないかと疑いたくなるほどに、的確に欲しいときに欲しい言葉をくれる。


 「ただいま……か」


 「ん?どうしたの?」


 「何でもない。それよりももうご飯作り始めるのか?」


 葵と愛莉は持っていた袋をいったん下におろすと、洗面台で手を洗う。

 学園を出てからスーパー以外に寄り道をしたということはなかったが、思ったよりも時計の針は進んでいる。生徒会室でのやり取りが思っていたよりも時間を喰ってしまったらしい。

 夜というにはまだ少し明るいかもしれないが、そろそろ夜ご飯の準備を始めたほうがいい時間だろう。


 「そうだね。じゃあ私つくっちゃうから、葵くんはゆっくりしてていいよ」


 「や、どうせ暇だから手伝おうか?」


 「気持ちだけもらっとく。だって今日は葵くんに尽くしてあげる日だから!」


 「今日は言うこと聞く日で、尽くす日なのか……なんか凄まじい日だ」


 「そうなのだよ!ただ、明日からはバリバリ働いてもらうよ?だから今日はゆっくり休んでて」


 愛莉はそう言うと葵の背中をぐいぐい押して、最後にはソファーにドンと押し出されてしまう。

 久しぶりに料理するのが楽しみなのか、愛莉がご機嫌そうなのが背中だけで伝わってくる。

 特にやることもない葵は、そんな愛莉の様子をソファーからぼーっと眺める。


 そして思わずに笑ってしまう。

 今日が愛莉に言うことを聞いてもらえて、尽くされる日ということに。明日からは逆に葵が愛莉に指示に従い、尽くすということに。

 実に一週間ぶりとなる、エプロン姿で料理をする愛莉の後姿を見て葵は、しばらく退屈はしないだろうなと思った。



                  ・・・



 「葵くん!ご飯できるよ!」


 体がゆっさゆっさと揺すられる感覚と、鼓膜を叩く愛莉の声によって葵はゆっくりと目を覚ます。

 目を覚ました時に真っ先に目に入ったのは、愛莉の可愛らしい顔だった。寝ている葵を起こそうとしてくれたのだろう。愛莉の両手は葵の肩を掴んでおり、愛莉の両眼は葵の顔をしっかりととらえていた。


 そのため、葵が目を開けた瞬間に意図せず目が合ってしまった。

 葵は寝起きで意識がもうろうとしていたため、ただぼうっと愛莉の目を見つめ続ける。

 愛莉も愛莉で一向に目をそらす気配がない。

 その状態のまま十秒ほど見つめ合った。


 「ん、あいりか。はよぉ」


 やがて、朦朧とした意識のまま葵はゆっくりと前に倒れる。

 そして――


 ぽふ


 寝起きで意識がもうろうとしていた葵は、そのまま前に倒れ、目の前に立っていた愛莉の胸に顔をうずめてしまう。


 「はぁぁ……葵くん、寝ぼけてる?」


 「んぁ?おきてるおきてる……」


 愛莉は葵が突然自身の胸に顔をうずめてきたことに対し、顔を赤くしたり、怒ったりすることもなく、ただただ困り果てたような表情を浮かべていた。

 幼なじみだからだろうか。愛莉が葵を起こすことは多く、葵が寝ぼけて愛莉の胸に顔をうずめることは珍しくはあるけれど、今まで一度もなかったというほどではない。


 「こうなった葵くんって、なかなか起きてくれないんだよなぁ……」


 愛莉は小さくそうぼやくと、自身の胸の位置にある葵の頭をぽんぽんとゆっくり撫でる。

 普段、料理や洗濯などの家事を除いたら、葵はしっかりしていることが多い。

 学園での成績だって、全体で見ても上位には必ず食い込むほどだろう。

 愛莉だって困ったと思ったときに、真っ先に葵を頼るくらいには頼りにしている。けれども……


 「相変わらず……可愛い寝顔しちゃって」


 葵のルックスは愛莉が幼なじみで、仲がいいというひいき目から見てもかっこいいと思う。

 最近だって後輩の女の子から葵が告白されたという話を聞いたほどだ。

 もてるのも納得のかっこいいルックス。

 だけど、そんな葵のかっこいいところを知っている葵のことを好きな人たちも、葵がこんなかわいい寝顔で寝ているなんて知らないのだろうと思うと、愛莉は少し嬉しくなる。

 独占欲、とは違うけれど、自分しか知らない一面があると思うと嬉しくなる。


 「ほんと、こうしてると私の弟みたいだね……。なんて言ったら怒るかな?」


 姿勢が苦しいのか、葵は愛莉の胸に顔をうずめつつもぞもぞと顔を動かして、ベストポジションを探している。

 きっと葵が今の言葉を聞いていたら、俺的には愛莉のことを妹みたいに思ってるけどな、って言うんだろうと思った愛莉は思わず笑みがこぼれるのだった。


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