第31話 激しい拷問

登場人物

―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。



一九七五年、九月:ニューヨーク州、マンハッタン、ミッドタウン


 ジョージはその夜夢を見た。ああ、またかとすら思った――以前も正夢だかなんだかはあった。今後の事に繋がる奇妙な夢だ。そして夢である場合もあれば、起きている時に見る幻視じみたものもあった。恐らく同じ要因で発生している類いなのであろう。

 それが己の把握していない何かしらの潜在能力なのか、それとも契約している魔王が己に見せているのかは定かではないが、しかし有益であった。


 よくわからない視点があった。ジョージはそこから何かを見ているという実感を持った。やがて、それが一人の老女の生活のダイジェストじみた途切れ途切れのものである事を理解した。そしてそれがあの最初に殺された犠牲者であると悟るのに時間は掛からなかった。

 干渉できない、しかし背ける事もできない必視の体験なのだ。

 最初は平穏であるように思われた。一人で暮らす老人の大変さはよくわかった。体が弱った状態で己の面倒を見て、そして友達もおらず、家族とも疎遠。幸い一人で暮らせるだけの蓄えはあったらしかった。

 だがその孤独はやはり老女を蝕むのであろう。途切れ途切れのその体験の中で、一人ショットグラスを片手に涙する場面も見た。溜め息と共に帰宅し、バスのチケットを机の上に投げていた。一人でこれからを歩まねばならぬという状況の心細さはいか程のものであるのか――ジョージは妻と別れ一人息子に死なれた己の現状をこの時忘れていた。

 だが次に、人生の幸せが強かった頃の思い出を発掘してせめてもの慰めとする様を途切れ途切れに目撃した。アルバム、壁や机の上の写真、日記…そこに何があるのかまではよくわからない。それらがどのような記録や記憶であるのかまでは。

 しかしそれらの雰囲気は柔らかく、優しく思えた。それはこれからの数年または数十年の孤独を紛らわせる事ができると思われた。幸せは明日の希望に繋がるのであろう。それは確かに理解できた。それらの様を見ていると、老後に向けてもっと思い出を作ろうと考えたものであった。

 少なくとも老女は、幸せに包まれていたのだ。それが過去の、もう戻って来る事も触る事もできない何かであっても構わない。思い出は思い出として、それを望み忘れぬ限りは生き続ける。物理的または精神的な思い出を生かし続ける事ができる。

 魔王は『この人間は一人で生き一人で思い出を作るつもりなのか、無意識にそう考えているのか』と笑いそうになるのを我慢していたが、夢の中のジョージはそれに気付く事は無かった。

 ともかくそのようにして日々は途切れ途切れに続いていった。これは一個人の、人生という物語なのだ。千差万別であり、そう考えると孤独な老後という物語とて悪くは思えなかった――。

――だが、それは楽観であり、現実から目を逸したものであった。これは犠牲者の物語なのだという事を、ジョージは思い知らされた。

 孤独だが確固たる何かがあり、希望も残された生活。本人にとっての満足。最初の犠牲者である白人の老女は明らかにそのようなものを持ち、支えられていたのだ。

 しかしその支柱を尽く破壊する何かが現れるとすれば、それは一体どれだけ悍ましい様であるか。

 悍ましき影響はやがて現れ始めた。老女の様子がおかしくなり始めたように思えた。『いや、気のせいだ』というジョージの心境に反してこの途切れ途切れの人生ダイジェストは何やら雰囲気がおかしくなっていた。

 何がおかしいのか。老女がグラスを持つ事が増えた。老女はジョージの視界に入って来るなり茶色い液体の入った瓶をどさりとテーブルに降ろした。その液体をグラスに入れて、ぐっとあおる事が増えた。ジョージはその瓶に書かれたパーセント表示をはっきりと視認した。

 老女の顔が赤ら顔である事が増えた。酔っ払って妻子を殴っては外及び塀の中を行き来する白人至上主義者のような様相があった。彼女は強気を保っているように思われた。

 今のところ彼女自身の異変以外は何も見聞きできない。だが、老女は何かによって変わってしまったのだ。彼女に彼女以外の同棲者がいれば、何かしらの衝突が起きていたのではないか。

 途切れ途切れが次は部屋の中ですっ転んだ彼女を見せた。病院から帰って来た様子。相変わらずの赤ら顔、その目の奥に浮かぶ感情がなんであるのかを理解した――恐怖だ。

 何かが彼女を苛み、脅かしている。彼女は何かに不安をいだいている。それはなんだ?

 やがて闇が到来した。家の中に何かがいるような気がしてきた。ジョージは己の中の『いや、気のせいだ』という楽観を打ち払って集中した。

 また途切れ途切れが眠る老女を見せた。不意に何かの影が揺れた気がした。起きて頭を抱える老女を見せた。そして行き着くのはアルコール。ベッドに座って瓶でラッパ飲み。ああ、これは悍ましい様ではないか。

 途切れ途切れが老女の憤激を映した。しかしこれは不安なのだ。空の瓶を叩き付けて割り、部屋が荒れ始めた。ああ、何かがいる。弱る彼女を尻目にそれは大きく成長しているのだ。

 途切れ途切れが不意に落ちて割れる皿を映した。老女は大きく狼狽えた。蛇口から出て来る錆だらけの水。窓ガラスに内側から付着した黒い液体。あれはなんだ?

 途切れ途切れが天井から老女の顔に向けて落ちる血を見せた。多分血であるように思われ、老女はそれで飛び起きて、次の途切れ途切れである事実に気が付いた。

 ああ、そういう事か。今や老女は…荒れ果てた部屋にいる。彼女は思い出を振り返る事は無い。得体の知れない怪奇現象に悩まされ、アルコールに頼り続けて情緒不安定。表情は病的で、そして恐怖があった。

 彼女はアルバムも写真も日記も、あれ以来振り返らなくなった。二度とそうなる事が無いようにすら思われた。日常が破壊され、老女は地獄に叩き落とされた。孤独だが幸せを残すこの思い出の部屋はその住人と同じぐらいに荒れた。

 彼女は壁や机に多くの写真を飾っていた。だが今では一枚とて見えない。どこにも思い出が無く、ただひたすらに孤独と不安が支配した。これが彼女の末路か? 彼女が何をしたか? まあ何かしたかも知れない、例えば独居老人生活を。いずれにせよ、彼女は恐ろしい目に遭っている。

 ジョージは途中で終われない夢というものに対して震えた。これはいつ終わるのか? 震えが強くなった。

 途切れ途切れは似たような光景ばかり見せ始めた。終わりの見えない孤独の末路。老女は残骸の散乱した部屋で苦しみ続けていた。今ではアルコールすら摂らなくなった。そんなもので恐怖を消せないのだ。

 彼女は画鋲を手に持っていた。その画鋲の使い道は、ジョージにとってジャーナリズム的経験で知っていた。痛ましい光景を見た。爪の間、しかしそれでも一時凌ぎだ。

 ジョージはやめろと絶叫した。これは狂っている。しかし終わりはまだまだ来なかった。絶叫する老女。狂乱の顔。薬物依存末期じみた凄惨な姿。服は垢だらけで濃い灰色の汚れが目立った。今や外出もしない。

 この閉ざされた部屋で彼女は恐怖に追い付かれ、どうしようもなかった。彼女は具体的に言えば最悪の形でその尊厳を踏み躙られていた。彼女は死を嗅ぎ取り、酷く恐れていた。己が何か得体の知れないものに殺されると思っていた。

 彼女は明らかに命乞いをしていたのだ。めちゃくちゃに汚れた顔に恐怖と媚びるような懇願を浮かべ、現実逃避じみたご機嫌取りをしていた――信じられたものか、姿も見えぬ何かに『お願いです、殺さないで下さい』と精一杯の笑顔で頼んでいる。

 涙や化粧跡でぐちゃぐちゃの顔は血相も悪く、それを見るとこの末路の不当さがよくわかった。彼女は静かに一人で暮らしていた。社会の片隅で暮らしていた。思い出に浸って強く生きていた。その彼女がアルコールに溺れ、次は苦痛に溺れ、そして今は命乞いに溺れている。

 少なくとも彼女にとっては己の命が奪われるという確信があった。この部屋に侵入した何か、不安を煽る怪奇現象を起こす何かによって最終的には殺されると思っているのだ。

 それを嘲笑うような現象が起こり続けた。電話が真夜中に鳴り、取ると不気味なオルゴールが受話器の向こうで鳴っていた。彼女の足裏は投げ捨てて割ったガラス瓶の破片で化膿していた。目から涙と化粧と垢とが混ざり合ったものが流れた跡があった。

 ジョージはやめろと叫んだ。だがそうはならなかった。彼の願いは掻き消えた。そして今、ジョージははっきりと嘲笑うような何かの笑い声を聞いていた。老女は耳を塞いで絶叫している。この様が通報されたり苦情が無いという事は、ここが封鎖されていたという事であろう。

 老女は最期に何かを見た。その瞬間に、この必視の光景の一部が、フィルムのおかしくなった映像のようになった。そこに死があるのを認めた。それははっきりと視認できなかったが、しかし何かがそこにいた。

 老女は凄まじい恐怖の表情を見せた。どんな映画も、またどんな天才画家ですら終ぞ描写できぬ形相。理不尽だ、彼女は理不尽を感じていた。全てを奪われたのだ。何かが嘲笑い、露悪趣味のホラー作品じみた後味の悪さを演出した。

 この囁かな空間は全て破壊されて塗り替えられた。恐怖が専制し、死が支配した。楽しかった頃の幸せな思い出を振り返りながらゆっくりと死を待つ余生が奪われた。

 未だに響く笑い声がどこまでも悍ましく、命を奪われ凄まじい形相で事切れた痛いが残った。老女はその死後すら無碍に、乱雑に扱われた。彼女の遺体は真夏頃に見付かった。死後数日だが腐敗は早く、しかしそれでも顔面全体を使った恐怖の形相が事件を扱った全員の記憶に残った。

 そして、悍しいのはこれだ――腐乱死体で発見されたのに、何故叫び声が発見のきっかけになり得たのだ? まあそれとて、悪意さえあれば不可能ではないように思われた。


 ジョージは震えが止まらなくなり、そして絶叫した――貴様か!

 貴様を見た。私は貴様がそこにいたのを見た。私はあの時訪れた部屋のあの場所に、かつて貴様がいたのを今はっきりと見聞きした。

 貴様だな。ならば殺してやる。貴様を見たのであるから、貴様は私に殺されるという事だ。貴様は永遠には逃げられない。貴様はこの街を狩り場としたが、それは貴様を狩る者の注意を引いたのだ。

 貴様が真実によって死なないのであるなら、私は貴様を猛毒によって殺す。苦しみながら死ぬようにしてやる。

 我が狩り場はこの街全て。貴様を殺してやる。魔王の晩餐として無惨に貪り喰われるよう仕向けてやる。それこそがこれまでの犠牲者達へのせめてもの慰めであるから。

 目が覚めたジョージは久々に寝室を仕切る壁を殴った。痛みがあり、そして生の実感があった。痛みすら満足に得られなかった彼女を見よ。では、貴様にも同じ思いをさせてやろう。

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