第7話 独立した残酷さという名の真実
『名状しがたい』注意報――この話は冒頭から文体がけばけばしく、改行が極端に少ない。
登場人物
―ジョージ・ウェイド・ランキン…息子を失った退役軍人、『ワンダフル・ピープル』紙の記者。
―
【名状しがたいゾーン】
一九七五年九月、午後十一時:原色的コントラストの位相におけるニューヨーク州、ロングアイランド南西部郊外、ジャーマンタウン病院廃墟
〘まあそのままで聞け、宇宙の残酷さの具現化であるあのエッジレス・ノヴァの事が俺は大嫌いだ。何よりあれは性格が最悪の部類に入る。というわけで、俺もお前という新しい使徒が簡単に死ぬのは面白くないと思っているわけだ〙
そのように呑気に喋る異界の魔王の声が頭の中で響き、ジョージはうんざりしながらも走った。背後では悍ましい獣の足音が聞こえ、それに追い付かれる前に逃げ切れるかどうかであった。ほんの少しの距離がとても遠くに思え、しかし彼は冷静さを保った。あの階段に到達し、彼はなんとか転ばないようにしてぐっと進路を曲げると、手摺りに腰掛けて滑って降り始めた。さて、あの獣がブレーキを掛けられるかどうか。
そして彼が降りる背後でそれはブレーキを掛けようとしたが、前足があの剥がれた塗料片だらけの床で思った以上に滑り、そして階段及び建物の向こう半分へと向かう廊下やその他諸々を塞いでいる得体の知れない肉の壁に激突した。不満そうな呻き声が聞こえ、降り終わった彼は踊り場で振り返った。さて、どうするか。逃げ続けても終わりなど無い。この変異した犠牲者と戦わねば終わりなどありはしない。先程の犠牲者と同様に殺す他無いのだ。懐中電灯で照らすと、ぬらぬらと輝く涎に濡れた牙が鬱蒼と生える口が見え、ごろごろと獣じみた声を上げる元人間の変異した目がぎらりと光っていた。いいだろう、やる気なら本気で殺してやる。ジョージは力強く威嚇するようにして階段を一段一段登り始めた。彼は完全に殺す気になっており、戦争に挑む人中のインドラであった。その英雄的な様を見て名状しがたいリヴァイアサンの
ジョージが登る音に反応して獣はぐるぐると唸り声を出した。廊下にその忌まわしい音が鳴り響き、鼻や口から入り込むようなむっとした臭気が体内を満たした。獣らしい悪臭、それも長い事洗っていない飼育動物じみた匂い――これは気に入った、あれが『飼育動物』であるという事、そのような真実、あるいはそれが真実であれば、この下らないゲームを仕掛けて来ている黒幕の実験体を鼻で笑ってやれるという事。それは非常に素晴らしい事に思えた。例え、己の思考が魔王の影響下で歪み始めていようと、それだけは絶対的な真実に思えた。ならばその真実を確固たるものにしなくてはならない。真実を固定し、現実に楔を打つ。そのような抽象的かつ己とは本来無縁な物の考え方が自然と頭の中を満たし、往時の列強植民地の現地担当者がその使命であるとかなんであるかを全く疑っていなかったのと同じように、ジョージはそれらの思考を疑わなかった。そうと決まれば彼は硬かった。雨季の冷たい雨でずぶ濡れとなった新聞紙のように柔らかく、それでいて原則的に一般的な物理学の範疇では破壊不能な二酸化マンガン膨張隔絶装甲のごとく硬かった。故に彼はこの惑星のあらゆる陸上の肉食獣をも凌駕する、明らかに自動車よりも重量のある獰猛な獣に一歩一歩恐れる事無く近付けるのだ。
残酷さの具現たるエッジレス・ノヴァはその無数の側面によって宇宙のあらゆる角度を監視し、三年前の過去及び六〇〇万年後の未来からジョージの様子を監視していた。明らかに魔王はうんざりし、己の使徒が忌々しくも度しがたい愉悦者のつまらない興味対象となっている事実を呪った。ジョージにもその様子がなんとなく伝わった。
「大丈夫だ、お前が嫌っている者の原理を崩せばいい」
〘そうか? しかし『より残酷』というのは奴の無限連鎖講の内側であるぞ?〙
「なら、私はお前を典拠としよう」ジョージの歩みはあと少しで二階に登り切る。長い長い数秒間はこれで終わりだ。「本で読んだ事がある。お前が嫌う実体の性質、それとお前の性質」
ジョージは心の中で続けた――お前の使徒はお前を典拠として振る舞おう。お前がエッジレス・ノヴァに典拠せず真実を形成できる事を信じる。すなわち、残酷さの総体に依らない独自の残酷性。それがいい、実に機能的な真実、現実の在るべき在り方。これには悠久の時を歩んだリヴァイアサンとて感嘆せずにはいられなかった。その決意を証拠付ける展開、すなわち一気に飛び掛かって来た獣の一撃を躱して、折り曲げた左手の指の第二関節を爪に見立てて突き出し、擦れ違う獣の勢いに任せて『引き裂こうと』した。
ただただ素晴らしかった。宮廷のいかなる家臣の慰みの言葉をも無意味にし、そしていかなる芸術をも超越し、故にどこまでも美しい残酷さとして成立し、嫉妬を隠しもしないエッジレス・ノヴァが退散する様を魔王は爆笑して見送った。何よりこの真実は叛逆性があった。かつてあのいずこからともなく出現して諸宇宙を永遠にその汚染下に置いた悪逆の徒どもと同等の邪悪に思え、それでいてどこまでも清楚に見えた。それは残酷さの総体を、それよりも遥かに歳下の魔王が出し抜いた瞬間であり、リヴァイアサンという種族全体における輝かしき記念日――彼らの複雑な時間感覚における記念日――となるであろう。
今すぐにでも同族にこの事を言い触らしたいのを必死に我慢して、
ジョージは王位継承の内戦を見つめるニーダロスの大司教のごとく厳粛な表情を取り、それでいて容赦は見えなかった。
「来い、臆病な野良め」
ジョージは階上から踊り場へと手招きで挑発し、今となっては鬱陶しいだけの獣のミスを誘った。このまま虫けらのように殺す事こそが、この哀れな犠牲者に対する最上の慈悲に思われた。彼ら犠牲者は吐き気を催す実験体によって心身を著しく歪められ、その実験体の信じられないような悪意を映し出している側面ですらあった。事実、魔王から見ればこれら犠牲者はある種の側面として既に機能しており、そういう意味ではただの操り人形でもあった。となれば彼らもまた、『本体』の何らかの一面を切り取った具現であると思われた。
あの空気の流れのようなものが歪んで見えたと思った瞬間、この原色的コントラストの位相でやや異質な色合いに見える獣はだっと階段を駆け上り、その先にいるジョージを狙った。床に押し倒して貪り食うのだ。だがそれはお前の頭の中で勝手にやっていろ、この国や州の法律は多分その権利を認めていたはずだ、多分な。
ジョージは滅殺者のように立ち回った。機械的に、どのように殺すかを頭の中の計画書で決めていた。かような名状しがたいものどもを狩るようになって以来、あらゆる悍ましいものに関する書物を読み漁り、それらの性質を知った。それらの分類を知り、それらが具体的にはどのような生物ないしはそれ以外であるかを事前に色々見ていた。目の前の獣もまた当惑に値するものであるが、しかし類似する例を見ていた。この背腹裏返しの獣の、露出して蠢く肋骨の中にある隆起した内臓のようなものは明らかに弱点であり、事実これと類似した生物の討伐例にもそこが弱点とあった。つまり殺害可能であり、場合によっては恐怖させる事も可能である。
一直線であるが故に高速であるが、しかし『単調』なそれをジョージは見切っており、普通であれば既にあれの夕飯になっているという運命をぞんざいに捻じ曲げ、そしてそれが単体の新規の真実、すなわちエッジレス・ノヴァに典拠せずに成立する独自の残酷さとして事を組み立て始めた。獣の突進を避けても獣はその爪や牙で次々と乱暴に、そして高速かつ無慈悲に連撃ができる。だがジョージはその全てを回避した。それは普通であればあり得なかった。それは物語の中でだけ成立するか、あるいは物語用に『弱く』想定された偽物の獣の話のはずなのだ。つまり常人の身体能力で執拗さと速さと力とを兼ね備えた己以上の生物に太刀打ちできるはずがない。だがジョージはそれを可能とした。あの廃校で深海の巨大
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