番外編

「たっだいまぁ!」


 異形の彫刻が所狭しと刻まれた巨大な鉄扉がいとも容易く両側に開き、私のご主人様がご帰宅された。


 高熱を帯びた紅玉色の瞳。緩やかな曲線を描いて捻じれた二本の角。輪郭に添うように伸びた黒髪。身に纏われた人間の衣装の裾が持ち上がり、ばさりと広がる漆黒の翼。今日もお美しい。


 一秒に満たぬ視認の間に外出されていた主人のご様子を伺った私は主人の進路を絶妙に邪魔する位置で跪き、ピンヒールの感触を待った。いつもであれば当然のように私を足蹴になさり、あるいは足置きになさる流れが自然である。ところが主人は軽快なスキップなど披露されながら私を迂回し、手にされていた白い帽子を部屋の隅へ放った。


「イベル様、そのお召し物……地上へ出向かれておいででしたか」

「そ。僕が前に願いを叶えてやった元人間、あいつったら本当に面白いんだ。僕だとも気づかず『お嬢さん、どうしたね』だってさ! 傑作だよ!」

「アスモデウス様にお咎めを受けますよ」

「煩いよユベル。ノルマはこなしてるんだ、僕だって少しくらい楽しませてもらわなくちゃ割りに合わないね。こうして魔女の精力も手に入ったし、愉快な日だ! ふふ、またいぢめに行っちゃお~!」


 邪悪さと無邪気さが同居する微笑がイベル様のご尊顔を覆っていく。私は身の内に湧き上がる激しい黒煙に嗚咽を来しかけ、静かに魔界の瘴気を吸った。


「恐れながら、元人間ごときにイベル様のご寵愛は身に余るかと」

「なんだよ、やけに肩を持つじゃん」

「いえ、そういう訳では」

「人間どいつともこいつもバカばっかりだ。さっすが天使に目を付けられてただけのことはある愚直さだよ、あの男。天界になんて絶対送ってやるもんか。だぁい好きだ!」


 イベル様は花柄のドレスを脱ぎ捨て魔界の衣装にお召し替えをなさると、ぴったりした黒革のホットパンツから優雅な長い尻尾を引っ張り出し、そのまま小さな尻を振って退室された。


 滞在時間僅か、一分二十二秒。


 腹の底から譬えようもない怒りが湧き上がり、私は耐えかねて床に伏せた。


「イベル様に踏んでいただけなかった! イベル様に踏んでいただけなかった! イベル様に踏んでいただけなかった! アアァ────────ァアアアア! イベル様に踏んでいただけなかった!!!」


 脆弱な人間であればこんな思いには耐えられまい。私は這い蹲った石床からおもむろに立ち上がり、イベル様よりご支給いただいた揃いの制服から埃を払い落とした。


 悪魔たるもの、人間如きに心を乱されるようでは未熟極まる。イベル様の第一の下僕にあるまじき醜態。だが奴は絶対に許さない。事もあろう、奴はイベル様にご足労をかけ、ご尊顔を拝し、お言葉を受けて殴る蹴るなどの暴行まで頂戴したのである。卑しくもイベル様のご機嫌をとるなど、実に許しがたい。


 私はイベル様が管理される低級魔の台帳を開き、ヴィクトールなる名を探り当てた。


「忌々しい低級魔め……この怨み晴らすまじいぞ。女運は――既に最低値か。男運まで下げてしまったら呪いにならん。くそ、なんと虐め甲斐のある!」


 生前の経歴から現在の業績まですべてが記された記録を睨み、私はペンを取って使い魔の幸運値をまた一段階改竄した。

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