第2話

「ふん、パリか。革命以降落ち着きのない街だ」


 私は情緒というものを解するには些か感受性や想像力というものが欠けているタイプの人間だ。幼児が積木したような粗悪な木造アパルトマンが密集し、昼間でも薄暗く無風の空間に過剰な人口密度で人がひしめき合っている。石畳を敷いているとはいえ、中心を横切るセーヌ川がひどい悪臭を放っていれば美しいとは言い難い。


 指導者と政治体制をとっかえひっかえ、現在返り咲いた帝政下のフランスにおいて、県知事は近代都市へと改造の真っ最中だ。産業革命と共に求職者が次々と流れ込み、同時に文芸人たちが議論や芸術を発散しようと毎晩サロンで自由について語らう。王殺しを達成したフランス人は、自我と共に権力を嫌悪する性格を持ったがために国の向かうべき航路が定まらず、勝ち得た自由を持て余す現在のような刹那主義へと陥った。人々の気怠い空気は下層労働者たちの厭世気質を助長させ、定規を当てて矯正されていく都市の景観に反して陰鬱だった。


 仕込み傘を突きながらセーヌ川左岸をゆっくり歩き、私ことヴィクトールは本売りや絵描きの姿を見るともなしに観察する。そういえば近頃私と同名の政治家が作家として話題になっていると漏れ聞いたことがある。見かけたら少しめくって──いやいけない。足が重いせいで思考がつい現実逃避してしまう。


 現在、私が訪ねに行く金色の魔女の住まいは橋を渡った先のモンマルトルの劇場だと聞く。恐らくは性根の好かない吸血鬼も一緒だが、背に腹は変えられない。


 情けない話だが私は夢魔としての本性との折り合いが悪く、なかなか人の夢に出ても精力を吸い取るまでに至らない。というのも、人の夢に入った夢魔は本来その者の淫らな思考やもどかしい煩悶、あるいは邪悪な欲望を観察しながら催淫をもたらすものなのだが、私はどうにも誘惑の言葉より先に説教が口をついて出てしまう。つまりは獲物の最も望む姿で戒めを与えることになり、獲物は欲望を打ち捨てて精神の浄化を得、私のことを天使と誤解して晴れやかに目を覚ましてしまうのだ。


 夢魔は誘惑の姿を取り、かつこれは夢であると自覚させた上で対峙するために本来抗う術のない悪魔であるが、力を発揮できるのは眠っている相手のみである。高らかな雄鶏の鳴き声と共に、私は毎朝空腹と自己嫌悪に襲われて目を覚ます。


 そんな落ちこぼれである私は、お仕えする悪魔イベル様に多大な借金をつけられている。生前、初恋の相手を蘇らせる代わりに夢魔としての使役を約束した私に拒否権はなく、細々と惚れ薬などを売りながら八百年近くまで膨れ上がった夢魔としての義務に従う毎日である。


 今回魔女を訪ねて来たのも、下界よりわざわざご足労くださったイベル様に督促の叱責を受け、女を誘惑できないなら魔女の精力でも分けてもらってこい、できなければ下界に引き摺り下ろして拷問すると激しく罵られたためである。今の私は四十路の壮年の姿であるが、これ以上行くと性欲自体が思い出に加工された年代が増え始めるため、骨折り損になる確率がぐっと高くなる。ひとまず若い乙女の唾液でも貰って身支度を整えるとして、私は通行人を注意深く物色した。





「お嬢さん、どうしたね」


 橋の袂に差しかかり、私はふと足を止めた。

 道端に身なりの良い少女が蹲って泣いているのだ。仕立ての良い綿のドレスに花を挿した白い日よけ帽の装いからして明らかに孤独の身の上とは思えぬものを、無慈悲にも周囲の人間は足早に通り過ぎて行ってしまう。

 少女は私の方を仰ぐと、赤褐色の大きな瞳を見開いて零れる涙を拭った。


「父様とはぐれてしまったの」

「いつ頃かね」

「わからないわ……父様はここで待ってなさいって、私を置いて行っちゃったの。もうずっと前によ!」


 少女は私の外套の裾を掴むと、堪え切れぬ様子でぽろぽろ涙を零した。


「母様がお隠れあそばしてから、父様はわたしをあちこちに預けるの。きっとわたしがいやになっちゃったんだわ……!」

「滅多なことを言うものじゃない。ずっと立っているなら、お腹が空いていないかね。そこのカフェなら今立っている場所が見える。一時間待って来なければ、私と警吏の所へ行こう」

「うん……」


 顎の下で結んだリボンを弄りながら、少女は愛らしい仕草でこくんと頷いた。私に少女趣味は断じてないが、あどけなさの残る顔を涙で腫らした彼女の手を引くと、何とも言えぬ背徳感が伴う。彼女を連れて足早に道を横切り、カフェのテラス席に着いた。


「おじさま、あたしタルト・ショコラとイチジクのファーブルトン、悩んじゃうわ。半分ずつ食べて下さらない?」

「…………いいとも」

「わあ、すてき。てっぺんのマカロンは私にちょうだいね」


 子どもを選んだのは実に都合が良かったが、彼女の無邪気さにつけ込む罪悪感が首筋を炙る。迷子はすっかり機嫌を良くして、赤い布張りの椅子の上で足を振り振り、周囲の客を眺めている。


「君の父親はどんな格好かね。上着の色や背格好は?」

「背はおじさまより低いわ、少しね。靴がね、左の踵だけ鋲が取れてて、足音が左右で違うのよ」


 まったくもって参考にならぬ情報だ。父親の言いつけを守って数時間橋の上で立っていたり、お菓子を前にして迷子を忘れてしまったり、暢気と称するには少々不足の世間知らずである。

 そこまで考えて、私はようやく待てよ、と首を捻った。

 私が口を開くより先に、少女が小さな手をするりとこちらに伸ばして尋ねた。


「ねえ、私も質問よ。どうして声を掛けてくれたの?」

「……お父君が心配ではないのかな?」

「答えて。ねえ、どうして優しいの?」

「それは、君があんな場所で蹲っていたからだよ」

「だってずうっと立っていたのに、声を掛けてくれたのはおじさまだけだわ。みんなに親切なの? それとも、私に何かしてほしいのかしら……」

「君は身なりがいいから浮浪者には見えない。目立っていたんだよ。君が迷子を装った孤児かケーキをご馳走させる詐欺師だとしたら、私はまんまと騙された訳だがね」


 私がひたと視線を据えると、少女はあっさり肩を竦めて悪びれもしない微笑を浮かべた。それから運ばれてきたケーキを大きな一口で頬張り、くるりとフォークを回して向かいの道路を指した。


「本当はね、あそこに立ってる新聞売りが私の父様なの。ずっとこっちを見てるでしょ。私はまだ店で売れる、、、歳じゃないから、こうしてお客を探してるの。断ったら父様があなたのことを誘拐犯と言って警吏に突き出すし、私は父様にぶたれて夕方まで橋の上で立たされるの。お願い、私のこと可愛がって。ここの店のトイレは授乳台があって広いの。2フランでいいわ。キスしてあげる。おじさまのお髭によ。お願いよ!」

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