恋人へのワーク 

絵理は再度ゲシュタルトセラピーを受ける事にした。

前回は10年のいじめのワークを体験したが、今回は恋人のワークをやって貰おうとした。


今日は7人女性がいた。皆田房永子さんの本を読んで来たという。

今回の先生はおじいさんだった。名札に自分の名前を書いて貼り付けた。

「現代社会では自分が所属している所が自分のアイデンティティになってしまいますね。『○○会社の○○です』とか。そうじゃなくて、『自分は自分だ』って思う必要があるんですね。」


「立って深呼吸を3回して下さい。」


「目を瞑って下さい。」

「周りの音をよく聞いてください。」

「エアコンの音が聞こえますね。自分がどう感じているかに気づいてください。」


そうすると先生は窓のブラインドを開けた。

目を瞑ったまま何か(先生が)近づいてくると恐怖感を感じた。


「目を開けてください。」

「今度は窓から景色を眺めてください。」

「郵便屋さんのバイクが通ってますね。あ、赤い車だ。」

「普段私たちは外観の世界にばかりに目を奪われてしまいます。自分が何を感じているのかに気付きましょう。」


「今度はお隣の方とペアを組んで下さい。」

絵理は隣の女性に「よろしくお願いいたします。」と挨拶をした。

「その方と向き合って下さい。そしてその方の目をじっと見つめてください。」


絵理はその方の目をじっと見た。

その方の目はシャープな目つきだった。

「もっと近づいてください」

近づいた。

「もっと近づいてください」

近づいた。

「もっと近づいてください」

近づいた。ペアの方の顔に触れそうだった。

 女性とこんなに近づいた事はなかった。

「笑ってしまう、思わず言葉が出てしまう。そういう自分に気づきましょう。それから今の自分の手の組み方、いつもと違う手の組み方をして下さい。」

絵理はいつも立つと前に手を組む。両脇に手を置くと何だか変な気分だ。


「ペアの方から離れてください。」

離れた。

「離れてください。」

離れた。

「離れてください。」

離れた。少し悲しい気分になった。


「ではその方と今自分に起きた事や感じたことを共有してください。」

 絵理は自分の気づきをペアの人に伝え、ペアの方の気づきも聞いた。

「では気づきのレッスンを終わりにします。まずどなたからワークを始めますか。」

絵理は手を挙げた。

 絵理は座布団を1枚持って、先生の元に行った。

「自分が今伝えたい事を話してください。うまく言語化しなくても構いません」

「恋人への暴力をやめたいんです。この前もまたやっちゃったんです。

その日は仕事でくたくたで、でも鍋を作っておにぎりを買って今から帰ると恋人に伝えたんです。でも明日の朝ごはんのお粥がないし、鍋の材料もないからスーパーに行かないと。スーパーに行く途中に彼に会って、あ、私日頃自分の方が忙しいのに、家事をしてくれない彼が嫌で。私が旅行中も家事も何もしてくれなくて、家の雑然さに帰宅時愕然としてしまって。スーパーに一緒に行って自分の欲しいものの場所が分からないから店員さんにお粥が置いてある場所を聞いて3種類しかなくて。

 レジの列で並んでいると、彼がやって来て『お粥が3種類しかなかった』と言うと、彼が沢山の種類の雑炊を探して貰って、『お前はお粥も探せないのか』と自分が責められているようで。勝手にそう思って。私は『先に帰って良いよ』って何回も言うと、彼は先に帰って『今日は疲れたからおにぎりとおかずだけで良い?』と聞くと怒って。他人がやらないと拗ねるのに自分はやらない彼に対して怒って。

『自分の思い通りにならないからって拗ねるのやめなよ、自分はやらないくせに』って言うと、彼は自分の質問に答えてくれないので私は怒鳴って、いつものように自分で作ったごはんをまき散らして。投げて。「何してんだ、お前は!」と彼は私の頬を思いっきり平手打ちして、雁字搦めにされてなかなか対抗が出来なくて。青あざが3箇所出来ました。

 彼は扉を閉めて、私は扉を叩き割ろうとして、扉が開いたら彼は玄関を飛び出したので私も側にあったクイックルワイパーを持ち、走って逃げる彼に投げた。『待てこの野郎!』と叫びながら廊下を走っていったら彼は階段を下りて逃げてしまって。

 私はその後すぐに冷静になって気づいたんです。恐らく彼は晩御飯やお粥が探せなかった事についてそれほど責めていないのではないかと。実際彼もそうLINEで言ってて。

『お粥を探せない、疲れて晩御飯の支度が出来ない』自分に苛立ったのだと。無理をしたから。私は自分に自信がないから、何をしても責められている気分になります。

 自分に生きる価値がないと思っています。」


先生は「じゃあ、その彼氏の座布団を置いてみて下さい」と言った。

「はい」

と言われると、絵理は1枚座布団を持って行って、自分の目の前に置いた。

「彼氏にどういう事をして貰いたかったかその座布団を彼氏に見立てて言ってみて下さい。」

 絵理は青い座布団の方を見て

「いつもゴミや自分の脱いだ服をそのまま床に置いて私が拾って洗濯して、洗い残しがあると怒るし全く家事に協力的じゃない。私はあなたのお母さんじゃありません。自分の事は自分で出来るようにしてください。私は当分ごはんを作るのも、洗濯もしません。私はあなたの家政婦じゃありません。」

「今日だって」

「そう言ったら『あなたの事は嫌いだけどご飯は作ってほしい。』と言われました。私はあなたの家政婦じゃありません。」

「『私はあなたの家政婦じゃありません』て強く言って下さい。」

「私はあなたの家政婦じゃありません!」


「あの、一回、彼は重度の鬱病で電車で飛び降り自殺未遂を起こしまして、私は彼に隠れて彼の会社に問い詰めたんです。でも彼が悪いのかその上司が悪いのかその場にいないと判断出来ない、と思ったのが私の一番愚かしい部分であった事にその時気づくべきだったんです。その後彼と諍いがあって、『上司が悪いってあなたは言ってるけど本当はあなたが何かしたじゃないのか』って言ってはいけない事を言ったんです。

 私はがっと彼に首を絞められて、『人の事詮索しないで』と言われました。また、『誰が何と言おうと自分の事を信じて欲しかったんだ』って彼は包丁を出して首を切ろうとしたので警察に通報して結局彼はすぐ逃げたので私だけ翌日の早朝まで事情聴取を受けて。それで終わったんです。その後別居して、でもまた再び住むようになって。でもあの時『誰が何と言おうとあなたの事を信じているよ』って言えば良かったんです。それだけは謝りたくて。」

「彼に『ごめんなさい』って言いますか。」

「はい。あの時誰が何と言おうとあなたの事を信じられずごめんなさい。」

「彼に対する暴力はどうしますか。」

「…彼にも悪い所があって、彼はそれを直そうとしません。でも暴力による『教育』は無意味です。傷つけて本当にごめんなさい。

しばらく彼の世話をやめます。」

 彼は自分一人だったら何でも出来る事を私は知っているので。現に私がいない間部屋はピカピカでした。でも私がいない間ソシャゲに課金するようになって。月10万位課金しちゃうんです。私と喧嘩すると。それは…でも今とは言わないけど後々やめて欲しいなって。

『喧嘩しなければ、機嫌悪くなければ課金しない』って言うんですよ。それは無理だなって。そこは抑えるように彼になって貰わないと。」

「彼にそう伝えますか?」

絵理は座布団に向かって、「はい。…ソシャゲはほどほどに…って何か笑っちゃいますね。」

「他に彼に伝えたい事はありますか?」

「ああ、私がいるせいで私以外の他人と一切関わらなくなったんです。友達もいなくて。宅配便も受け取れなくて。この前も自分の荷物、私がシャワー浴びている間に宅配便が来て、彼は階段から逃げてしまったんです。私は慌てて受け取ったんですよ。でもあの時受け取らなくて良かったなと思うんです。彼の『教育』の為にも。」

「彼のお母さんは彼を物凄く溺愛してます。自分の息子を『様』を付けて呼ぶんです。今でもお小遣い送ってるくらい。それが『生存確認』だそうですけど。ちなみにお母様は私が『彼を奪った』って思って憎く思っていらっしゃいます。」

「お会いした事はあるんですか?」

「いや、でもそう彼が言ってました。彼の家に遊びに行ってもお母さんは私に会おうとはしませんでした。2階にいて、1階にいる私達にお菓子が彼を通して渡されたんですけど。」

「私気付いたんです。私がさらに彼をダメにしている『母親』じゃないかって。でも母親の業はやめたいんです。んー、でも家事をやめたいとかじゃなくて。今までの意識のままでやると駄目なんです。義務だと思うとまた自分が潰れるんじゃないかと思って。」

「じゃあどうなりたいですか?」

「自分がやりたいと思ってやりたいです。で、出来ればやりたくない、疲れている時は助けて貰いたい。」

「あたし、小さい時母親が風邪を引いても家事を全く手伝わなかったんです。私は寧ろ罪悪感で、母は私を殺すんじゃないかって思った時期がありました。

 社会人になって自立して、自分の事は自分でやるようになりました。母とは色々あったんですけど。

「彼氏には幸せになって貰いたいですか?」

「はい、めちゃめちゃそう思います。恩も沢山あります。でも私じゃなくて良いのかなと思うんです。でも何か今の彼の状態だと浮気もできなさそうで。いや出来るかもしれないですけど。本当に孤独なんです、彼。」

「彼氏に何か言う事はありますか?」

「幸せになって下さい。その為には人と対峙することから逃げない事。私はあなたから逃げません。」

「他に彼に言う事はありますか?」

「いや意外とないです。」

「絵理さん、今回のワークはこれで十分だと思います。」

時計を見ると、1時間経っていた。

「はい。ありがとうございました。」と絵理は講師と参加者に向けてお辞儀をした。

「はい。ありがとうございました。」


 絵理はこのワークで『義務感』と『本心』というワードを得た。


 そうか自分が心の底から思う事をする、何に対しても。そうしないと具合が悪くなる。

仕事も、『別にやりたくない事』を寝ずにやっていたからうつ病になったんだよな。

全てはそれなんだよ!


自分のやりたい事をする。やりたくないならやめれば良い。

いやさあ、自分の『やりたい事』を仕事にしている人がこの地球上どれだけいるのだろうか。あんまりいないんじゃない?だから皆ストレス抱えて。家庭がある人は猶更だよ。『こいつを支える為に働かなきゃいけないんじゃないか』って。」

「…いや、自分もそうかもな。親を支える?彼を支える為に働いて家事をやって…。独身なのに!」


好きに生きたい。これが大変むずかしい。


「待てよ、自分の『好き』って何だ?」

…料理、掃除、洗濯(すげえ主婦向いてると思うんだよね、働かずに主婦になりたい。)

絵を描く事、文章を書く事、音楽、クラシック、たまにお洋服を買う事、好きな友達に会う事、漫画、読書、カラオケ、結構スピーチは好きかもな。英語は死ぬまで使う仕事を続けたいし。


…とりあえずお腹も空いたし、余っているひき肉で何か作るか。絵理はスーパーに向かった。

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